hmdの鐵たびブログ ローカル線の旅

のんびりローカル線の鉄道旅を、写真を中心に「見る紀行文」で長期連載しています。

【328】かぶらの里、シルクの鉄路・・・上信電鉄(26)馬庭駅と馬庭念流道場。  


多胡碑(たごひ)のある吉井いしぶみの里公園から、吉井駅へ戻ろう。
途中、県道が上信線を立体交差している場所【カメラマーカー】があり、見晴らしが良い感じだ。
交通量が多いので、長時間の立ち止まりや三脚を使った撮影は危険であるが、
短時間の手持ちのスナップ撮影ならば、何とか出来そうだ。
少し待っていると・・・上り高崎行きの上信線オリジナルの1000形が通り過ぎ、
その先の大きな左カーブをスムースに抜けて行った。

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(上り高崎行きの1000形。吉井の市街地を抜けると、丘陵に寄って、高崎に向かう感じになる。)



吉井駅に到着。借りた自転車を返却し、次は隣駅の馬庭駅(まにわ-)に向かおう。
吉井の町から、鏑川を渡った対岸にある町だが、ここも高崎市吉井町になっている。



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吉井1253======1257馬庭
上り(普)32列車・高崎行(150形第二編成2両編成)
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12時53分発、上り高崎行き群馬サファリパーク号の150形第二編成に乗車。
カーブを少し曲がると、平坦地の住宅地や畑の中を時速60-70kmで真っ直ぐ走って行くが、
突然、住宅の連なりが途絶えて、下り急勾配と半径200mの急カーブがある盛り土区間になる。
周辺には住宅は無く、小川が流れる荒れ地が広がっており、鏑川の河岸段丘下段部分らしい。
そのまま、勾配を下り切って、少し左にカーブすると・・・上信線の三大鉄橋のひとつの下流鏑川橋梁を渡る。

八連のデッキガーター鉄橋を、大きな反響音を響かせながら渡り切ると、
返しの上り勾配は無く、駅間距離2.3km・約4分で、馬庭駅上り1番線ホームに到着。
古い佇まいの駅であるが、全開通当初の八駅には入っておらず、
開通から13年後の明治43年(1910年)7月5日開業(※)に、停留場として開業し、
戦後の昭和28年(1953年)1月に、停車場に昇格している(※)。

起点の高崎駅からは9.4km地点、7駅目(開業時は停車場扱い)、所要時間約20分、高崎市吉井町馬庭、
標高96mの曜日時間限定業務委託駅である。
周辺を住宅地に囲まれた静かな駅であるが、近くにある県立高校の通学利用が多くなっている。

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(ホームと駅名標。戦後の近代化事業で、ホーム舗装と波型スレート屋根の旅客上屋が設けられた。)

先に、撮影許可を貰いに出札口を覗くと・・・駅員氏が昼休憩の時間らしく、誰もいない様だ。
東西に配された島式ホーム一面二線の列車交換可能駅で、Y字スレート屋根の旅客上屋が設けられている。
構内踏切は、西の下仁田方に設けられており、連絡通路で駅舎本屋(ほんおく)とコの字で接続する。
また、吉井駅と同様に、上信線では珍しい、古レール柱の大型架線トラスが連続して見られる。

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(下仁田方の踏切横からの馬庭駅全景。)

下仁田方は、踏切を越えると、線路が纏まっている。
そのまま、ほぼ水平に230m程真っ直ぐに走ると、下流鏑川橋梁がある。

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(下仁田方。)

高崎方は、警報器・遮断器付きの小さな踏切が隣接し、左にカーブして行く。
そのカーブの先は、丘陵南際の田園地帯の中を快走する区間だ。
なお、この小さな踏切を通って、南に徒歩7分程歩くと、群馬県立吉井高校がある。
群馬県は男女別学の県立高校が多いが、昭和49年(1974年)の新設校の為、
開校当時から共学校になっているそうだ。

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(高崎方。)

線路の北側にある、駅舎を見てみよう。
他の有人駅と似ているが、屋根の向きが東西で異なっているのは、上州新屋駅に似ている。
元々、簡素な停留場であった為、駅舎は後年に建て替えられたものかもしれない。
構内踏切を渡ると、コンクリートの大階段とその上に両扉の引き戸があり、
待合室に直結した臨時改札口として、高校生達の朝の通学時に使われているとの事。

また、改札前の連絡通路が大変狭く、ホーム状になっているのは、
かつては、列車交換設備の無い停留場だった事から、開業当時のホーム跡かもしれない。

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(ホーム側からの駅舎。)
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(改札口周辺。)

改札口を通ると・・・手小荷物窓口は閉鎖され、殺風景な継ぎ接ぎ感だ。
待合室はとても広く、ふたつの部屋を合わせた様な変形構造になっており、
高校生達の待ち合いの為に増改築されたかもしれない。
なお、この馬庭駅が通学駅となっている事から、「まに高(まにこう)」と言う愛称があるそうで、
吉井高校の略ではない愛称になっているのも面白い。

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(改札口と出札口。大規模に改装されている様だ。)
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(待合室と臨時改札口。天井や壁も、新建材を使っている。)

駅前広場やロータリーは無く、車一台が通れるだけの狭い町道に面して、駅舎が建っている。
改札口側と待合室側の二箇所に駅出入口あり、東西の屋根の高さや下見板の上辺位置が違うので、
ちぐはぐな印象が強い。

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(駅前通りからの駅舎。)





馬庭地区は鏑川の辺りにあるが、高台にある為に水害の危険は少ないらしく、
直角二等辺三角形の様な形をしているのが面白い。
この馬庭の静かな住宅地の中に、古式武術の道場があるそうなので、見に行ってみよう。
駅出入口から左に歩いて行くと、理容店と小さな商店の前を過ぎ、簡易郵便局と神社のある交差点に出る。

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(駅前の小さな商店街を西に歩く。)

この交差点角には、飯玉神社【鳥居マーカー】と小寺が並んで建っており、鎌倉時代からの村社だそうだ。
食料(農業)の神で、馬も産んだと言われる宇氣母智命(うけもちのかみ)を祀り、
隣の小寺は古式寺院建築でない無個性な民家風であるが、
文禄4年(1595年)の豊臣秀吉の太閤検知の際、別当寺(※)として、移転されたとの事。
なお、現在の社殿は、昭和35年(1960年)に建て替えられたもので、
地元出身の内閣総理大臣経験者である、福田赳夫氏揮毫の扁額が掲げられているのに驚いた。
また、江戸時代中期から伝承されている馬庭獅子舞が、高崎市の無形文化財になっている。

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(飯玉神社。隣には、立派な黒御影の由緒石碑と馬庭獅子舞の解説板が建立されている。)
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(元・内閣総理大臣福田赳夫氏揮毫の扁額。当時は、農林水産大臣だったらしい。)

案内看板に従って、神社のある交差点から、住宅地の中を北に歩いて行くと・・・
駅から約5分で、馬庭念流道場【赤色マーカー】に到着。
大政奉還が行われた慶応3年(1867年)に、二十代当主と門弟達が建てたと言う長屋門が構えている。
黒い下見板と土壁、瓦葺きの立派な造りで、群馬県の指定史跡になっているそうだ。

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(馬庭念流道場の樋口家長屋門「傚士館(こうしかん)」。長さは、約37mもある巨大な門だ。)

馬庭念流とは、600年前から続く日本最古の剣術で、現在の武芸流派の源流となっている。
奥州相馬出身の相馬四郎義元(慈恩念大和尚)が、南北朝時代の正平23年(1368年)に奥義を習得し、
諸国巡りの後、信州浪合(長野県下伊那郡阿智村浪合)に長福寺を建てて、本拠地とした。
この時に、樋口家十一代目の樋口太郎兼重が門下に入り、高弟となっている。
なお、樋口家は、平氏を打倒した木曽義仲(源義仲※)配下の有力武将「義仲四天王」の家柄で、
あの巴御前(ともえごぜん/義仲の側室、女武者として有名)も、この樋口家生まれであるそうだ。

後に、樋口家は、信州からこの上野国多胡郡馬庭村に移り住んだが、念流の教えも変化してしまった。
慶長3年(1598年)、念流七世友松偽庵氏宗が長旅の途中に立ち寄り、古来の念流への回帰を図っていた、
樋口家十六代樋口又七郎定次が奥義を授かって、念流八世となり、中興の祖として仰がれたそうだ。
なお、奥義は一世一人のみの秘伝とされ、これ以降、樋口家に伝授されている。
高田馬場の決闘や赤穂浪士一の剣豪と言われる、堀部安兵衛も入門したと言う。

特徴は、ハの字の足先と後ろ重心、「オー」と言う独特の気合、長刀や槍を得意とする剣術で、
独自の防具を身に付け、竹刀ではなく、木刀を使って稽古をする。
江戸城の御前演舞に招かれた事もあるそうだが、念流は、「負けないで、勝つ。」と言う自衛の剣術であり、
樋口家は武芸で仕官をしない事をモットーとし、郷土武芸家として全うした。
また、武士・農民・町人の身分を問わず、上野国一円で大変人気があり、江戸道場も持っていたとの事。
何と、吉井藩主松平氏や七日市藩主前田氏も入門したそうで、起請文(きしょうもん※)も残っている。

なお、この長屋門の中に道場があり、毎週日曜日の15時から稽古が行われ、見学も可能らしい。
毎年1月の第三日曜日の鏡開きでは、公開演武も行われ、地元恒例の新年行事として賑わうそうだ。
現在の当主は、念流二十五世の樋口定仁氏(樋口家三十四代当主)になっている。


(YouTube馬庭念流鏡開き御修技模範試合(木刀使用)。※音量注意、再生時間40秒。)



まだ、時間があるので、駅の南にある下流鏑川橋梁【黄色マーカー】も、見に行こう。
飯玉神社前の簡易郵便局まで戻り、踏切を渡った先にある。

踏切から下仁田方を見ると、立派な大谷石の石蔵【倉庫マーカー】があり、
後で戻って来た女性駅長氏に尋ねると、地元農協の倉庫跡との事。
倉庫前には、大きな出庇と広いスペースもあり、ここに貨物ホームと側線があったと思われる。
現在は、交換用レールやバラスト(砕石)等の保線資材置き場になっている模様だ。

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(馬庭の農協倉庫。かつては、出荷農産物や肥料等を、取り扱ったのだろう。)

住宅が疎らな畑の中を南に250m程歩くと、鏑川北岸に到着【カメラマーカー】する。
昭和44年(1969年)に架けられた両歩道付き二車線のコンクリート橋・入野橋(三代目)があり、
上流240m先に上信線の鉄橋が架かっているのが見える。
この入野と言う字(あざな)は、万葉集(※)や新続古今和歌集(※)に出てくる大変古い地名で、
明治22年(1889年)の町村制施行の際、馬庭を含む周辺の九ヶ村が合併して、入野村も成立している。

この下流鏑川橋梁は、八連デッキガーターの大鉄橋になっており、遠くに浅間山と妙義山も見える。
左の白い工場が視界に入ってしまうが、ここも上信線の有名撮影地で、特に夕陽の光景が美しいとの事。
かつての河畔には、渡し船があり、昭和8年(1933年)に、初代入野橋が現橋の下流に架けられたそうだ。
また、日本映画「路傍の石」(昭和38年版・東映/原作は山本有三)のロケ地になったそうで、
人気俳優や女優をひと目見ようと、連日鈴なりの見物客だったそうだ。

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(入野橋からの下流鏑川橋梁と浅間山・妙義山。※28mm相当で撮影。)

甘楽(かんら)エリアを流れる鏑川中流域は、大きな河岸段丘がある為、水害は少ないが、
この上流にある多胡橋付近は鍵状に曲がって、川幅も狭く、部分的に水害が発生しやすくなっている。
特に、明治40年(1907年)8月15日の暴風雨は激しく、この下流鏑川橋梁の橋桁下部まで
水位が達したそうだ。同夜未明には、漂流物が激突して、橋桁の一部が流失している。
なお、このデッキガーター鉄橋は、電化改軌時に架け替えられており、
軽便鉄道時代は、小さなワーレントラス鉄橋だったので、もう少し低い位置にあったらしい。
煉瓦の橋脚は明治30年(1897年)の開業当時のものである。

また、馬庭駅の北500m先の丘陵地帯には、陸上自衛隊吉井分屯地があり、引き込み線もあったそうだ。
太平洋戦争中、弾薬試射場として開設されたのが始まりで、現在も弾薬の試験研究や備蓄を行っている。
なお、明治以降、高崎は陸軍の軍都としても栄え、現在も、高崎線沿線の新町に陸上自衛隊が駐屯している。

昭和22年(1947年)の国土地理院航空写真を調べると、引き込み線らしきものは見当たらないが、
昭和35年(1960年)の航空写真には、馬庭駅の東420m先に大きな空地が線路沿いに設けられ、
取り付け道路が吉井分屯地に延びている。
写真解像度の限界で判らないが、おそらく、貨物側線が設けられ、ここで荷扱いをしていたのだろう。
現在は、太陽電池発電パネルの基地になっている。
グーグルマップ・吉井駐屯地貨物ヤード跡?




山名を過ぎて馬庭駅
馬庭念流音高き
樋口十郎左衛門の
道場今もあるという

上信電鐵鐡道唱歌より/北沢正太郎作詞・昭和5年・今朝清氏口伝。
※当時は、西山名駅はまだ開業していなかった。



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(※馬庭駅の開業)
社史の年表には、開業日の記述が無いが、官報に記述がある。
(※停留場と停車場)
どちらも駅であるが、ポイントや信号機の無い駅を停留場、ある駅を停車場と区別した。
現在の法令上では、全て停車場になっている。
(※別当寺・神宮寺/べっとうじ・じんぐうじ)
江戸時代以前の神仏習合時代の神社を管理する仏寺の事。
当時、「神=仏」の考えがあり、別当寺の住職(別当)の方が、宮司よりも上位であった。
(※木曽義仲)
信州木曽源氏の棟梁。源頼朝や源義経の従兄弟に当たる。
平家の大軍を打ち破り、上洛をしたが、治安維持に失敗した。
また、皇位継承に介入した為、源頼朝が差し向けた大軍によって、討ち取られた。
(※起請文/きしょうもん)
誓約書・契約書のこと。神仏に誓って、契約を破らないと書き記した古文書。
戦国時代の大名同士の同盟や和睦等にも使われた。
(※万葉集)
日本最古の和歌集。奈良・平安時代頃の8世紀から9世紀頃の編纂と言われている。
(※新続古今和歌集)
室町時代の永享11年(1439年)に編纂された、和歌の朝廷公式勅撰集。
歴代天皇の命によって、延喜5年(905年)の古今和歌集から、21の勅撰集が編纂されており、
その最後の勅撰集である。

【参考資料】
現地観光案内板・解説板
吉岡ガイドマップ(吉井観光協会発行)
念流公式HP(念流宗家の公式サイト)
高崎市公式HP「高崎市の文化財」
「上信電鉄百年史-グループ企業と共に-」(上信電鉄発行・1995年)
「ぐんまの鉄道-上信・上電・わ鐵のあゆみ-」(群馬県立歴史博物館発行・2004年)

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