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のんびりローカル線の鉄道旅を、写真を中心に「見る紀行文」で長期連載しています。

【49】清流長良川と奥美濃を訪ねて・・・長良川鉄道(14)郡上八幡観光 その3 八幡城 後半の部  




早速、郡上八幡城【赤色マーカー】を見学してみよう。
城の入り口前には、茶屋と展望台があり、大勢の人が休んでいる。
春の陽気で、とても暑いので、売店のアイスが飛ぶ様に売れている様だ。

入り口前の展望台から、南側の吉田川方は、絶景になっている。
狭い谷間にびっしりと家々が密集していて、魚の形に見えるとの事。
手前の川は吉田川、右手の山の斜面の高架橋は東海北陸自動車道になり、
駅と長良川は、向こう側の尾びれの辺りになる。
なお、標高は353.9m、市街地からは129.8mの高さがある。
冬、雪が降ると、家々の屋根の白と山の黒が映えて、大変風情があるそうだ。

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(国土地理院 国土電子Web 郡上八幡城)

城の見学は、有料になっている。
入場料300円を支払い、入場券と案内パンフレットを貰う。

郡上八幡城は別名・積翠城(せきすいじょう)といわれる山城で、
戦国時代末期の永禄2年(1559年)に、遠藤盛数(もりかず)が築城しました。
積翠とは、積み重なった緑色と言う意味があり、この城の立地に良く当てはまる。

13世紀、関東の下総国(しもふさこく/千葉県)香取郡の東胤行(とうのたねゆき)が、
この地に移り入り、以降、十二代三百四十年の間、東氏が郡上一円を治めていた。
遠藤氏は、東氏が下総国からこの地に移った時に、野田氏と共に来た家臣であった。
しかし、戦国時代の永禄2年(1559年)、遠藤胤縁(たねより)が東氏に殺害された為、
弟の遠藤盛数が弔合戦の名目で、東氏を滅ぼしたと言われている。
当時の東氏の城は、此処の南向かいの東殿山(とうどやま・標高578m)にあり、
遠藤盛数が本陣を置いたのが、この八幡山になり、此処が気に入って築城したそうだ。

城の入り口には、石段と門がある。
郡上藩三代藩主の遠藤常友(つねとも)の頃、城や城下町を大修理・大整備し、
城と城下町の品格を完成させたと言われている。

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版籍奉還まで、城は現存していたが、明治政府の廃城令により取り壊されてしまった。
現在の城は、昭和8年(1933年)に、当時現存していた大垣城を参考に再建されたものだ。
木造再建城としては、国内最古になる美しい城である。

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四層五階建て、45度以上ある急階段を登り切ると・・・小さな天守閣に到着する。
そこからの眺めは絶景で、城は三方に開け、吉田川と小田良川を堀に見立てた、
天然の要塞になっている。

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(西側の職人町方面。向こうの山際に、小田良川がある。)
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(長良川と郡上八幡駅方面。)

東側を望むと、幅の広い山谷と中央に大きい道路が延びている。
高山に行く清見街道であり、その先は紅葉の大名所だそうだ。
現在は、「せせらぎ街道」とも言う国道472号線になっており、
江戸時代の頃までは、この道も郡上街道と呼ばれていた。

また、天守閣最上階には「日本一」の文字がある、真っ二つに割れた切り株がある。
十八代城主の青山幸哉(ゆきしげ)が、江戸の藩邸に住んでいた頃、
暴風で倒れた大木の中に「日本一」の文字が出てきたことから、これを霊符神として祀ったものだ。
八幡山麓にある積翠神社のご神体であり、文字が本当に刻印されている。

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(天守閣から東側。)

城内には、歴史資料館も併設され、歴史の解説、武具や所縁の品々等が展示されている。
展示の中に、江戸時代後期の城下町の模型も・・・
当時の鍛冶屋町、職人町や柳町も再現され、配置も今と変わってない様子である。
先程の坂の麓の安養寺周辺には、三の丸と言われる別の城郭があったそうだ。

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(かつての郡上八幡城の模型。)
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(郡上八幡城の古地図。)

なお、城主の変遷は多く、築城した遠藤家(1559年〜)から稲葉家(1588年〜)になり、
関ヶ原の戦い後は、遠藤家(1600年〜)が再復活したが、
五代藩主の遠藤常久に跡取りがおらず、井上家(1692年〜)、金森家(1697年〜)、
青山家(1758〜1869年の版籍奉還まで)と、五家十九代となっている。
なお、江戸時代は、そのうちの四代目から最後の十九代目になる。

特に、金森家の宝暦8年(1758年)までの4年間には、
有名な「郡上騒動(郡上一揆・宝暦騒動)」が起きて、
当時の藩主・金森家が、お家断絶になる大事件があった事で有名である。

当時、幕府内で重要な役目を担当した為、出費がかさみ、藩の財政が極度に悪化してしまった。
そこで、領民の年貢徴収方法を変更し、増税しようとした所、
当時、米があまり良く育たない土地柄だった郡上全村で、大規模な農民一揆が起った。
最終的には、農民有志が秘密裏に江戸に行き、幕府に直訴を繰り返した。
その後、幕府内で大問題となり、藩主の金森頼錦(よりかね)は、失政の責任で罷免され、
盛岡藩に預かりとなり、家臣や役人の多くが、罷免、死罪、遠島や追放等になっている。
一方、農民側も直訴人や一揆の中心人物など、20人余りが死罪になり、
他の者も遠島、追放や罰金などが課せられた。

今でも、郡上各地には、「宝暦義民」や「郡上義民」の慰霊碑が、あちらこちらにある。
特に犠牲者が多かった白鳥町には、「宝暦義民伝」として、踊りや太鼓演奏が伝承されている。
その騒動が収まった後の2ヶ月間は、当ブログの明知鉄道編で紹介した岩村藩に一時預かりとなり、
後に、丹後国宮津藩(京都府北部)から、青山幸道(よしみち)が入った後は、
明治の版籍奉還まで、良く治まったそうだ。

江戸時代の百姓一揆で、藩主までも処分されたのは、この郡上騒動だけだった。
農民が、唯一勝った一揆とも言われていますが、農民側の犠牲も多大であった。
なお、これを題材とした映画「郡上一揆」(2000年製作)も作られている。

さて、城から下って、帰る事にしよう。
丸の内の一角には、大きさ1m×30cm位ある力石【青色マーカー】があり、ふたつ鎮座している。
由来は、三代藩主・遠藤常友の頃、城の大修理が行われた際、
通称・赤髭作兵衛と言う人夫が、吉田川の河原から350kgもある大石を一人で背負い上げ、
現場監督の奉行が褒め讃えた所、作兵衛は感激のあまり卒倒し息絶えたそうだ。
奉行は哀れに思い、そのふたつの石を城の土台に使わなかったそうである。
昭和8年(1933年)の城の再建時に、この石が発見され、祀られている。

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その右横には、およしの碑がある。
城の改修の際、石垣が崩れる等の相当の難工事だった為、
現在の郡上大和付近の里一番の美人だった「およし」という若い娘が、
ここに人柱として、生き埋めにされた伝説がある。
城の本丸の石段の下で、「オヨシオヨシ」と言って手を叩くと、
泣くような声がする場所があると言われています。
天守閣前には「およし観音」があり、およしの霊が祀られている。

また、城の北側の駐車場脇には、首洗の井戸がある。
関ヶ原の戦いの直前2週間前の慶長5年(1600年)9月1日から3日に
元城主の遠藤家と援軍で来た飛騨の金森家が、当時の城主の稲葉家を攻める
「慶長の合戦」と言う激戦があった。
勝ち取った名のある遠藤家や金森家方の生首を洗い、首実検されたと言われている。



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2015年11月24日再編集
2015年12月23日加筆
2016年6月13日再編集(文体変更・文章追加・画像整理)
2016年8月7日画像追加

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category: 長良川鉄道 全22話

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