hmdの鐵たびブログ ローカル線の旅

のんびりローカル線の鉄道旅を、写真を中心に「見る紀行文」で長期連載しています。

【322】かぶらの里、シルクの鉄路・・・上信電鉄(20)上州富岡駅下車観光 富岡製糸場  


この上州富岡に訪問したら・・・定番ではあるが、富岡製糸場に行ってみよう。
平成26年(2014年)6月に世界遺産に認定されてから、街は活気が出ているそうだ。
若い駅員氏の話では、駅南の国道向こう側にあるので、徒歩で15分位かかるとの事。



駅から真っ直ぐに南に伸びる、駅前通りを歩き、国道254号線「上町通り」を右に曲がる。
町の拠り所の諏訪神社【鳥居マーカー】前の交差点から、昭和風の大きな商店街を少し南下すると、
右手に「富岡製糸場近道」の看板の路地がある。面白そうなので、ここから行ってみよう。
富岡銀座通り【カメラマーカー】と名付けられた裏路地の商店街は、閉店している店もちらほらとあるが、
昔ながらの精肉店や美容院等が今も営業している。

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(銀座通り入り口は、表通りの商店の間にひっそりとあるので、見逃しそうになる。)
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(富岡銀座通り。日陰の薄暗い路地が西に続き、古い店が多い。)

200m程西に歩くと、小さな十字路点の角に観光案内所兼物産館・銀座まちなか交流館があり、
ここを左に曲がって少し歩くと、製糸場の高い煙突と塀が見えてくる。

煉瓦造りの立派な正門【名勝マーカー】前に到着。
入って左手に入場券売り場があり、入場料は個人・大人1,000円と割高であるが、
内600円分は保存整備費に当てられるそうなので、カンパも込みの感じである。
また、並びの奥に、生糸の品質検査をした検査人館があり、今は事務所として使われている。
二階に皇族や役人が使った貴賓室が、そのまま残っているそうだ。

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(富岡製糸場正門。ここが、富岡市富岡1番地になっている。)

先に、この富岡製糸場の歴史について、簡単に触れたと思う。
明治に入ると、生糸は「ジャパンシルク」として、既に日本の主要輸出品になっていたが、
輸出量の拡大と共に粗製乱造が目立つ様になり、国際的な評判が低下していた。
また、西洋列強の文化産業レベルに追いつき、江戸時代末期に締結された不平等条約を改正して、
国際上対等な立場にする為にも、生糸を輸出して、外貨の獲得と富国強兵が必要であった。
そこで、明治政府は、より高品質で均一な生糸の大量生産と技術指導者育成の為、
フランス人製糸技術者ポール・ブリュナなど10名のフランス人顧問を雇い入れる事にした。
民間資本や技術がまだ乏しい日本への、外資による工場の直接進出を抑え、
経済植民地化を防ぐ意図もあった様だ。

早急に、器械化された近代的な西洋式官営模範製糸工場を富岡に建設する事になり、
この富岡が選ばれた主な理由とは・・・

・原料の繭が入手しやすい(富岡周辺では、高換金農産物として盛んに生産していた)。
・広大な工場用地がある(鏑川の大きな河岸段丘があり、平坦地が広がる)。
・外国人技術者の受け入れが可能である(古代には、大陸からの渡来人が移り住んだ土地でもある。)。
・製糸に必要な水資源が豊富(水量が多い鏑川がある)。
・湯を作る為のボイラーの石炭が採れる(山名・吉井付近の丘陵で、亜炭が採掘されていた)。

・・・等であったそうだ。
なお、唯一の弱点は、当時の富岡は交通の不便さがあり、
明治政府は水運の良い利根川流域に建設する意向であったらしいが、
ブリュナが、「いずれ、鏑川に沿って、鉄道の貨車が走る。」と押し切った逸話があるそうだ。
その27年後に、上野鉄道が開通するのを見越していたかの様である。

明治3年(1870年)、ブリュナらが群馬・埼玉と長野各地の養蚕地を視察した後、
提出された見込み書を検討して、明治政府は富岡に建設を決定。
翌年に建設を開始し、翌々年の10月に操業を開始すると言う、スピード開業であった。
15-25歳の若い女性を技術伝習工女として全国から採用し、工女達が故郷に帰った後は、
最新の製糸技術を伝えて、各地方における製糸技術の近代化を助けたと言う。
その後、富岡製糸場は民間企業への払い下げや譲渡を経て、昭和62年(1987年)3月まで操業し、
115年の歴史の幕を下ろしている。

工場の閉鎖後も、明治創業当時の貴重な建物が保存されている事から、貸し出しや取り壊しは行わず、
一般非公開で保存が図られ、平成15年(2003年)頃より、ユネスコ世界遺産に推す動きが始まり、
徐々にその機運が高まっていった。
そして、平成17年(2005年)に富岡市に寄進、平成26年(2014年)に世界遺産に認定され、
一部の建物は国宝に指定されている。

なお、世界遺産には、この富岡製糸場の他に、県内の関連する絹産業遺産3箇所も含まれ、
下仁田町にある荒船風穴(自然冷気を利用した蚕種貯蔵施設)、藤岡市の高山社(民間養蚕教育機関)、
伊勢崎市の田島弥平旧宅(近代養蚕農家)も含まれている。

■富岡製糸場略史■
明治3年(1870年)10月 ポール・ブリュナと正式に契約、富岡に建設を決定。
明治4年(1871年)3月 建設開始。
明治5年(1872年)10月 操業開始(※計画よりも三ヶ月遅れた)。
明治8年(1875年)12月 ポール・ブリュナと契約満了(翌年2月に帰国)。
明治26年(1893年)10月 三井家に払い下げられ、三井富岡製糸場になる。
明治35年(1902年)9月 原合名会社に譲渡、原富岡製糸場になる。
昭和13年(1938年)7月 株式会社富岡製糸場として独立。
昭和14年(1939年)7月 片倉製糸紡績株式会社と合併、片倉工業(株)富岡工場となる。
昭和62年(1987年)3月 操業停止。
平成17年(2005年)7月 国史跡(敷地全体)に指定。
平成17年(2005年)9月 富岡市に建物一切が寄進される(土地は翌年1月に有償譲渡)。
平成18年(2006年)7月 主な建物が、国指定重要文化財に指定される。
平成26年(2014年)6月 ユネスコ世界遺産認定、国宝に一部指定される。

なお、当時のアジアの状況を考えても、この短期間に西洋の最新技術を導入した製糸工場を建設した事は、
驚くべき事であり、日本以外の他のアジア諸国には見られない事例である。
イギリスでの産業革命は1760年代から始まった事を考えると、100年は経過しているのであるが、
明治期の30-40年間で同じレベルに達しており、先進国に追いつけ・追い越せと言うパワーと
国力の原動力になっているのを実感できる場所だ。
また、製品の輸出が出来ない太平洋戦争中は、パラシュートのロープ作りをしていたそうで、
空襲の被害も無かったのも幸いであった。



さっそく、敷地内を見学してみよう。
約5万3千m²、1万6千坪ある敷地は、サッカーグランド約七面分にもあたり、
中央にふたつの繭乾燥保管庫と製糸工場(繰糸所)がコの字に配され、
繭保管庫に挟まれた場所には、広い中庭と蒸気釜所(ボイラー所)等がある。
その外側に、会社関係者や工女達の住宅や診療所等が配されている。
なお、別途200円を支払えば、音声ガイド機の貸し出し、または、解説員のガイドツアーも受けられる。
スマートフォンによる、無料ガイドサービスもある(パンフレットのQRコードを利用。通信料自己負担)。


(グーグルマップ・富岡製糸場航空写真。)

正門から入場すると、東置繭所(ひがしおきまゆじょ)【赤色マーカー】が迎えてくれる。
テレビや雑誌等で、富岡製糸場のシンボルとして紹介されている、煉瓦造りの繭乾燥保管庫だ。
長さ104.4m、幅12.3m、高さ14.8mの横に長い巨大な二階建てになっており、
縦方向の煉瓦建築は難しい技術的理由のためであろう。

明治5年(1872年)の竣工で、一階は事務所と作業場に使われ、二階が繭の倉庫になっている。
柱の間に煉瓦を積み上げる木骨煉瓦造りと言う様式は、窓の蝶番等はフランスからの輸入品であるが、
木材、石材や煉瓦は地元産の国産品を使っているそうだ。
使われている10万個の煉瓦の製造は、当時は煉瓦職人がいないので、瓦職人が造り、積み上げたとの事。
現在は、一階右手が、製糸場や富岡の歴史等を総合解説するガイダンス展示と売店になっており、
中庭側から外階段を上がると、二階の倉庫内を特別見学する事ができる。

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(国宝指定の東置繭所。窓が多いのが特徴である。)

中庭側の外階段から、二階に上がってみると・・・屋根の高い、巨大な空間が広がっている。
この一棟に、2,500石(こく/約32トン)の繭を保管できたそうだ。
窓が多いのは、天気の良い日に通風をして、生乾きの繭を自然乾燥させる為である。
後年、熱風による繭の乾燥技術が確立されると、大きな麻袋に詰め、
内部に設けられたトタン製の貯繭室(ちょけんしつ)に保管したそうだ。
なお、繭を十分に乾燥させないと、中の蛹(さなぎ)が孵化したり、カビや腐敗の原因になる。

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(特別見学期間中の二階繭乾燥保管庫内。)
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(片倉工業の社名入りの乾繭保管用麻袋。※乾繭=かんけん。乾燥した繭の事。)

一度、正門側に戻り、反時計回りに順路があるので、散策してみよう。
敷地の北側には、日本人幹部の社宅【黄色マーカー】が、四軒並んでいる。

三井時代の明治29年(1896年)頃の木造瓦葺き建築で、
工場長、総務課長、原料課長と工務課長とその家族が住んでいた。
工場は洋風建築であるが、社宅は純和風の質素な様式である。
一番西側が、最も古いと言わる製糸工場長の社宅であるが、
二階窓は洋風に似せている、変わった様式だそうだ。

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(二階に擬洋式が見られる工場長社宅。)

そのまま、中央部の中庭に出ると、西置繭所(にしおきまゆじょ)【青色マーカー】が見える。
東置繭所と東西の対になっており、大きさも、造りも基本的に同じになっている。
当時の一階は、石炭置き場や繭の選別所に使われ、北側の石炭置き場東側には壁がなかったそうで、
この部分は昭和56年(1981年)に補強保存のため、増築された部分との事。
現在は、大規模な補修工事中で、ヘルメット貸出料(大人200円)が別途必要であるが、
補修中の屋根部分を見学できる(工事現場は撮影禁止の為、画像はご容赦願いたい)。

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(国宝指定の西置繭所。煉瓦が見えるが、工事シートに印刷したカモフラージュである。)

中庭の南側、繰糸場の横に湯を作る蒸気釜所(ボイラー所)があり、
同時特別公開されているので、行ってみよう。
大きな鉄製貯水槽「鉄水溜(てっすいりゅう)」【波マーカー】や煙突がある。
ウィキペディア共有画像ファイル・鉄水溜(※訪問時は、完全逆光の為に撮影困難。)

この鉄水溜は、ボイラーで沸かす前に軟水化させ、繰糸がし易い水質にする設備で、
横須賀造船所の関連施設・横浜製造所で、造船技術を使って、輸入鉄板で組み立てられた。
直径15.2m・深さ2.4m・貯水量約400トンの蓋の無い総鋼鉄製になっており、
輸入された鉄板をリベットでつなぎ合わせている。
なお、創業当時の煉瓦造りモルタル塗りの貯水槽が水漏れで使えなくなった為、
明治8年(1875年)に造り替えられたものだそうだ。
大谷石の柱の上に置かれており、微勾配が付けられ、自然に流れる様に工夫がしてある。

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(現存する鉄製構造物としては、国内最古級である。パイプの取付部跡から、中が見える。)

近くには、ボイラーの煙突も一本ある。
明治5年(1872年)に竣工した初代煙突は、明治17年(1884年)の暴風で倒れてしまったそうで、
現在の煙突は、昭和14年(1939年)に建設された鉄筋コンクリート製である。
初代煙突の高さ36mとほぼ同じ、37.5mの高さがあり、西に移動しているとの事。



東置繭所の南側に行ってみよう。
敷地の南寄り、東西の繭保管庫を結ぶ様に建てられている大きな建物が、
製糸工場である繰糸場(そうしじょう)【工場マーカー】だ。
屋根裏はトラス構造になっており、中央部に柱が無い大きな空間になっている。
また、屋根の棟には、日本家屋に見られる腰窓屋根が設置されており、和洋折衷の外観になっている。
これは、繭を解すのに湯を大量に使うので、蒸気抜きの為との事。

当時、長さ140mもある世界最大規模の器械製糸工場には、フランス式繰糸器300釜が置かれ、
繭を湯がく蒸気がもうもうと上がる中、工女達が繭から生糸を紡いでいた。
現在は、昭和40年代以降に設置された、国産の全自動繰糸機が保存されている。

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(国宝の繰糸所と蒸気釜所の煙突。)

この自動繰糸機は、ニッサンHR型と言われ、1セットの長さが32mの大型機である。
なお、ニッサンはあの日産自動車の事で、かつては、繊維機械事業部があった。
今は、日産テクシスに分社され、完全子会社(1993年分社化/資本金90億円)となっている。
トヨタやスズキも、機織り機製造(現・豊田自動織機/元・鈴木式織機製作所)がルーツなので、
日本の自動車産業と製糸・機織産業の関連性も面白い所だ。

繰糸は全自動になっており、人は調整や糸の詰まりや切れを直すのが主な作業になるそうだ。
1セットで480本の糸を巻き取れるそうで、ここには10セットも設置されている。
また、従来の全自動繰糸機の10倍の性能のスーパーマシンであり、
製造は終了しているが、今も最新型大型機として、全世界で使われているとの事。
ちなみに、官営時代では、1日に4本の糸が取れれば、エリートの一等工女になれた。
赤襷(たすき)と高草履の着用が認められ、工女達の憧れだったと言う。

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(昭和39年に開発された、ニッサンHR型自動繰糸機がずらりと並ぶ。)

繰糸場を出て、南側に行ってみよう。
南側の鏑川沿いには、工女達の寄宿舎、診療所やブリュナ館【緑色マーカー】がある。
ブリュナ館は、明治政府が招聘したポール・ブリュナとその家族の居館として使われた、
明治6年竣工・建坪320坪の立派な豪邸で、防空壕にも使われたと言う煉瓦造りのワイン貯蔵地下室もある。
なお、ブリュナの帰国後は、寄宿舎や工女に読み書きや裁縫を教える夜間学校として利用された為、
内部は大幅に改築されているらしい。

なお、ポール・ブリュナは、明治政府に雇われる為に来日したのではなく、
フランス・リヨンにある貿易会社の横浜支店で生糸検査員として勤務していた所を、
フランス人お雇い軍事顧問のアルベール・シャルル・デュ・ブスケが紹介した。
他の指導技術者達は、フランスからブリュナが連れてきたらしい。
しかし、内閣大臣相当の高年俸が問題となり、明治政府は5年後の契約更新をせず、解雇されたそうだ。

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(ブリュナ館。首長館とも呼ばれ、高床式で回廊風のベランダがある豪邸だ。)

川寄りの展望が良い場所に、工女達が生活した寄宿舎【ベッドマーカー】が建っている。
本格的な修復がまだの様子で、外観から見ても、かなり痛みが激しい。
なお、富岡製糸場は寄宿制のイメージが強いが、半数は近隣からの通勤だったそうだ。

この寄宿舎は、昭和15年(1940年)に建てられた三代目木造二階建て寄宿舎で、
15畳の南向きの部屋が1棟16部屋あり、南側が妙義寮(みょうぎ-)、北側が浅間寮と名付けられている。
なお、創業当時の初代寄宿舎は、東置繭庫の北に木造二階建てが建てられていたそうだ。
工女確保の為、無料診療所も工場敷地内に設置され、福利厚生は充実していたとの事。

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(川辺りにある寄宿舎。手前の地面のブルーシートは、発掘調査中との事。)

ブリュナ館と寄宿舎の南側は、高さ20m程の急崖【カメラマーカー】になっていて、鏑川が流れている。
この崖下には、当時の工場下水道の煉瓦積み排水溝があり、今も雨水排水に使われているそうだ。

南には関東山地最北端・標高1,000-1,500m級の御荷鉾山系(みかぼ-)が横たわり、
鏑川の上流を眺めると・・・「下仁田富士」こと四ツ又山、ふたこぶの頂きがある鹿岳(かなたけ)、
テーブル状の荒船山、不通渓谷(とおらず-)に鎮座する大桁山(おおげたやま)が、横に綺麗に並んで見える。
寄宿舎生活の工女達の郷里への哀愁を誘う様な景色だ。

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(鏑川の流れと西上州の山々。上信線や下仁田からは見えない、荒船山が見える。※赤矢印は、山の位置。)

なお、操業前に工女を募集した所、全く集まらなかったエピソードがある。
何と、赤ワインを飲むフランス人を見て、生き血をすすられるとデマが流れた為であった。
そこで、政府は何度も説明し、初代製糸工場長の娘を工女1号として採用して安心させ、
やっとの事で500名を超える採用が進み、予定よりも三ヶ月遅れて操業を開始したそうだ。

官営時代の富岡製糸場の待遇は、当時の女性労働者としては大変良かったそうで、
士族出身の子女等も多く、1日約8時間の労働時間や休日も保証され、準公務員的な待遇であったそうだ。
四等級ある内の初級工女でも、当時の小学校教諭並の月給が支払われ、
休日には目一杯お洒落をして、街に繰り出したと言う。
また、三井に払い下げられてから、労働環境が悪化したと言われるが、
民間製糸場程の劣悪な環境ではなかったと言われている。
大竹しのぶ主演の映画「あゝ野麦峠」の工女哀話が有名であるが、諏訪・岡谷の民間製糸工場の逸話である。



世界遺産に登録されてから、この製糸場周辺は急に賑やかになったそうで、
新しい感じの土産店や飲食店が建ち並んでいる。
丁度、昼時なので、正門近くのおぎのや【食事マーカー】で、定番の「峠の釜めし」を食べよう。
後で判ったのだが、この製糸場周辺では、カレーが名物になっているらしい。

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(おぎのや峠の釜めし。今は、駅売りよりも、直営食堂やドライブインでの販売量が圧倒的である。)

この峠の釜飯は食べた事のある人も多いので、今更に説明は不要かと思うが、
薄口の醤油出しの炊き込みご飯に、上品な味付けの9種類の具が乗った駅弁だ。
その誕生エピソードは、意外と知られていないので、簡単に紹介しよう・・・。

おぎのや(荻野屋)は、元々、明治18年(1885年)の信越本線横川駅開業時から駅前旅館を営んでおり、
おむすび2個と沢庵を竹皮に包んで5銭で販売したのが、駅弁事業の始まりである。
戦後、団体旅行や個人旅行が一般化するに従って、駅弁への要望も高くなって行き、
「駅弁はどこでも同じ。」、「暖かい駅弁が食べたい。」との声が出る様になる。
四代目当主・高見沢みねじ氏は、保温性が優れる土鍋に注目し、新しい駅弁作りに挑戦したのである。

戦後の高度成長が始まる昭和32年(1957年)10月15日、この峠の釜飯が完成したが、
容器の益子焼釜のコスト、食後の空き釜の処理方法に困り、国鉄の販売許可もなかなか下りなかったそうだ。
諸問題を解決して、発売を開始したのは、翌年の2月1日であった。
発売初日に30個作った峠の釜めし(当時は1個120円、今の1,200円位で、駅弁としては高かった)は、
たったの8個しか売れず、その後も、思うようには売れずに厳しい日々が経過したそうだが・・・
発売開始から半年後の同年夏、雑誌「文藝春秋」のコラム欄に「信越本線横川駅の釜飯弁当はイケル。」と
紹介されたのがきっかけになり、爆発的に売れ始めたと言う。
更に、昭和42年(1967年)6月には、この峠の釜飯に奮闘した経営者をモデルとした、
テレビドラマ「釜めし夫婦」の放送開始により、全国に知れ渡る様になった。

今や1日約1万個、年間約400万個も売れる超弩級駅弁で、その代表としてよく知られている所だ。
なお、直営食堂やドライブインで回収された空き釜は、洗浄後に蒸気で二度完全消毒をし、
再利用されるエコ容器になっている。



昼食後に一休みをして、駅に戻る事にする。
銀座通りの帰りに、原田精肉店【牛マーカー】と言う、昔ながらの精肉店が構えている。
工女達に人気があったコロッケが食べられるとの事で、
某有名番組の食いしん坊「まいうー」のあの人も来店したそうだ。

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(銀座通りの「肉の原田」。)

名物の工女コロッケを二枚注文し、暫く待っていると・・・
注文を受けてから、パン粉を丁寧に付け、ホクホクの揚げたてを用意してくれた。
早速、食べてみると、油っぽくなく、じゃがいもの甘さがしっかるするコロッケで、
肉屋のコロッケらしい、味のパンチ感のあるコロッケだ。
70年間作り方や味を変えておらず、当時は1枚5円だったそうで、工女達に人気があったとの事。
なお、メンチ(税込み1枚90円)や自家製焼豚(税込み100g当たり300円)も、お勧めである。

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(名物の工女コロッケは、税込み1枚70円。ソース無しでも、コクがあって、旨い。)

世界遺産登録で富岡の街も活気づいており、富岡を出ていった若い人達も、
「店を継ぐよ!」と戻ってきた店もあると、年配の旦那が面白そうに話してくれた。
なにより、人が集まれば、街の活気も経済効果もでるので、良い事だ。
この銀座通りは、「昔は街一番の繁華街で、芸姑も20人位いた花街だったんだよ。」との事で、
当時は相当賑わっていたらしい。

【肉の原田/原田精肉店】
日曜日と第三水曜日定休、朝8時から19時まで営業、駐車場無し(近隣に有料駐車場あり)。

お礼を言って、駅に向かおう。
今回は時間の関係で、製糸場周辺の散策ができなかったが、懐かしい昭和の町並みも残っている。
再訪問時には、散策と食べ歩きもしたいものだ。また、町の人達の表情も、明るいのが印象的であった。

富岡市観光ホームページ「しるくとみおか」



いと車 とくもめぐりて 大御代の 富をたすくる 道ひらけつつ

(富岡製糸場工女記念碑より。明治天皇皇后である昭憲皇太后のご訪問時に詠まれた。)



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【参考資料】
現地観光案内板・解説板
世界遺産富岡製糸場見学者向けパンフレット(富岡製糸場発行・2015年12月)
富岡まちてくマップ ver.5.0(富岡商店街連合会発行・2015年2月)

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