hmdの鐵たびブログ ローカル線の旅

のんびりローカル線の鉄道旅を、写真を中心に「見る紀行文」で長期連載しています。

【320】かぶらの里、シルクの鉄路・・・上信電鉄(18)高崎と高崎白衣大観音。  



さて、上信電鉄の旅二日目に入る前に、起点地である高崎について、少し触れておきたい。



群馬県南西部にある高崎は、古くは、旧・中山道の宿場町兼城下町として栄え、
県下最大の都市になっている。代表的な名物としては、高崎達磨が有名だ。
近年の市町村合併により、市域が広がっているが、現在の人口は約37万人である。
なお、江戸時代中頃は約6,000人、明治中期頃は約26,000人であった。

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(江戸時代後期・天保8年頃の高崎。木曾海道六拾九次之内「高崎」歌川広重画。
   ※フリー素材より引用。)

高崎の北方には、伊香保温泉で有名な榛名山(はるなさん/標高1,449m)と、
赤城神社で良く知られている赤城山(あかぎさん/標高1,828m)のふたつの火山が聳え、
利根川とその数多くの支流が南東方向に流下しており、
その火山噴出物が河川で運ばれて堆積した、標高100m程の台地上に高崎がある。
気候は内陸性と海洋性が合わさっており、夏は暑くて、雨が多く、雷が名物である。
冬は上州のからっ風と言われる乾燥した季節風が、北の山々から吹き付けるので、
とても寒いが、雪は県北部と比べて少ないエリアだ。

この高崎の街の歴史は、比較的新しい。
慶長3年(1598年)に井伊直政が高崎城と高崎藩を置き、
中山道が整備された江戸時代以降からで、明治初期に鉄道が開通し、
当時の生糸・織布産業の拡大と共に急速に発達している。
それまでは、高崎よりも南方にある、新町(高崎から上野方に三駅目)や本庄の方が栄えていた様だ。
また、明治に入ると、陸軍歩兵連隊も置かれ、軍都としても栄えた。
群馬・埼玉・長野エリアから徴兵されたこの歩兵連隊は、日清戦争から太平洋戦争まで従軍し、
あのパラオ・ペリリュー島の戦いで玉砕しており、大きな慰霊碑も建立されている。

なお、群馬県の県庁所在地は、この高崎ではなく、北東10km先にある前橋になっているが、
明治4年(1871年)の廃藩置県から翌年までは、この高崎に県庁が置かれていた。
群馬県と入間県(いるま-/現在の埼玉県)が合併した熊谷県(県庁所在地は熊谷)を経て、
再分割後、高崎に群馬県庁が戻されたが、前橋に再び置かれており、
至近距離に県下一・二の中心都市が隣接する珍しい地勢になっている。
「行政や文化は前橋、商業と交通は高崎。」と良く言われ、お互いにライバル意識が強いそうだ。

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(西の丘陵からの高崎の町並み。東を望む。奥は前橋で、ここから見るとひとつの街の様だ。
   また、赤城山や筑波山も見えるそうだが、あいにく、曇っていた。
   左寄りのひときわ高いビルは高崎市役所、中央付近が高崎駅である。)

鉄道的にも、関東から北陸・信州方面への重要な中継地になっており、
東京方面の高崎線、新潟方面の上越線、長野方面の信越線(※)の三大幹線の起点終点駅である。
列車の運行や利便の為、北関東を横断する両毛線(りょうもう-)、草津万座方面の吾妻線(あづま-)、
関東西部を縦断する八高線(はちこう-)と富岡下仁田方面を結ぶ上信線(民鉄)が乗り入れており、
更に上越新幹線と北陸新幹線も停車し、九つの路線が接続する鉄道大要衝地だ。

かつては、国鉄高崎機関区が置かれ、現在も、JR東日本とJR貨物の車両基地がそれぞれ置かれている。
高崎機関区は国鉄機関区の中でも、国内有数の歴史と格式の高い機関区として知られ、
終戦の頃から国鉄民営化まで、ふたつの機関区が置かれていた。
現在も、ふたつの車両センター・機関区が置かれているのは、その由縁である。
ちなみに、JR東日本の復活蒸気機関車D51形498号機やC61形20号機も、この高崎の所属である。

現在の高崎駅は四代目駅舎になり、上越新幹線開業時に建て替えられた、大きな駅ビルになっている。
地上ホームは三面七線・2番線から8番線の在来線用、
高架ホームは二面四線・11番線から14番線の新幹線用ホームになっている。
なお、1番線は廃止され、民鉄の上信線には、0番線が振られている。
9番線と10番線が欠番であるのは、9番線はかつての上信線の番線であった事と、
新幹線ホームへの案内上の判り易さの為だろう。

非電化の八高線専用の3番線と高崎線専用の7・8番線を除き、乗り入れに対してホーム数が足りない為、
2・4・5・6番線は、高崎線・上越線・信越線・両毛線・吾妻線各方面の共用になっており、
列車を乗り間違え無い様、注意が必要である。
また、廃止された1番線は、特急あかぎ・スワローあかぎの留置線として使われている。

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(コンコース出入口横の紅白達磨「幸福のだるま」。石の様に見えるが、金属製らしい。
   東京駅銀の鈴制作者の東京芸術大学学長・宮田亮平氏が、平成9年に制作したそうだ。
   また、駅ビル一階外壁に名物の赤達磨大壁画もあるが、あいにく、工事中で見れなかった。
   正月の達磨市は、関東全域のニュースになるほど有名である。)

■高崎駅略史■

明治17年(1884年) 日本鉄道として、高崎線の新町から高崎間が開通。高崎駅開業。
           高崎機関庫設置(後の高崎第一機関区、今のJR東日本高崎車両センター)。
           上越線が前橋まで開通。たかべん(高崎弁当)が駅弁販売開始。
明治18年(1885年) 信越線が横川まで開通。
明治30年(1897年) 上野鉄道(現・上信電鉄)が、福島(現・上州福島)まで開通。
明治33年(1900年) 二代目駅舎竣工。
明治39年(1906年) 日本鉄道の国有化。
大正6年(1917年) 三代目駅舎竣工。
昭和20年(1945年) 高崎第二機関区を設置(現・JR貨物高崎機関区)。
昭和57年(1982年) 四代目駅舎竣工、駅ビル開業。上越新幹線開業。
平成9年(1997年) 長野新幹線(現・北陸新幹線)開業。

・八高線は、昭和6年(1931年)に倉賀野から児玉間が開業、昭和9年(1934年)に全通。
・両毛線は、両毛鉄道として、明治22年(1889年)に全通、日本鉄道に買収後に国有化。
・吾妻線は、昭和20年(1945年)に渋川から長野原間が貨物専用線として開業し、
 翌年から旅客取り扱い。

なお、高崎から前橋間は当時の日本鉄道が延伸開業し、国有化後に両毛線になったが、
大正10年(1921年)に新前橋から渋川間が開業し、高崎から新前橋間も上越線になった。
長らく、高崎から新前橋間は、上越線と両毛線の二重戸籍区間であったが、
昭和32年(1957年)に両毛線の終点を新前橋に変更し、二重戸籍区間は解消となっている。



さて、この高崎は、明治以降に商業都市と軍都として発展した影響が強く、観光名所は意外と少ない。
その中でも、初めて高崎に来たならば・・・
外せない場所と言われている、高崎白衣大観音(-びゃくえだいかんのん)に行ってみよう。
東京都下で言うならば、昔の東京タワーや今のスカイツリーに相当する名所である。
なお、高崎の中心部ではなく、烏川(からす-)を越えた西の丘陵地帯にある。



高崎駅西口のバスターミナルから、市内循環バスが出ている様だ。
運転士に「観音さまに行きますか?」と尋ねると、このバスで良いとの事で、
「ご利益があるよ!」と笑いながら話してくれた。
運転席上のプレートを見ると、市から委託を受けて、上信電鉄が運行しているらしい。
話を聞くと、世界遺産に認定された富岡製糸場の方が人気の為か、観光客はやや少なくなったとの事だ。

定刻に発車する。普通の路線バスの半分位の大きさの小型バスで、乗客は4-5人だ。
車で混雑する高崎市内の交差点を何回も曲がりながら、西に向かって走る。
高崎市役所や国立高崎総合医療センターを経由し、烏川(からすがわ)に架かる聖石橋を渡る。

なお、建立当時の大観音方面行き上信電鉄路線バスでは、貸切遊覧バスよりも早く、
女性車掌による車内観光案内「ウグイスサービス」を始めたそうだ。
烏川を渡る聖石橋から観音山までの約4分間実施され、
NHK前橋放送局のラジオドラマ「観音山から」で放送されたセリフをそのまま使う、
粋な企画だったとのこと。
そのドラマでも、当時現役の上信電鉄女性車掌・本島光子氏が出演していた。
今は観光案内をしていないが、ちょっと、昭和11年(1935年)当時にタイムスリップしてみよう。
バスは、丁度、聖石橋に差し掛かった所である・・・。



ただいまより、沿線の説明を申し上げます。ここは聖石橋でございます。
烏川の清流が下手に見えます。川中の大きな石を聖石と申します。

右手の高い所は高崎公園で、熊・猿・鹿・鶴・鷺(サギ)・小鳥などたくさん飼われております。
川向うの広い野原が乗附練兵場で、特別大演習のみぎり、観兵が執り行われた光栄の地で、
記念碑も建てられてございます。

ただいま、片岡小学校前に参りました。
学校前の記念碑は、殉職七勇士の碑でございます。
昭和10年9月の恐ろしい大洪水に罹災民を救助しようとして、
深夜出動した高崎連隊の七勇士が激流に押し流され、
遂に殉職された悲しい思い出の跡でこざいます。

皆さま、左手の小高い丘は草臼山と申します。
新田義重公の居城寺尾城跡でございます。
その付近は天文18年武田・上杉合戦の跡で、俗に寺尾古戦場とも申しております。

正面に見えるの山が観音山で、頂に苔むす甍(いらか※)の見えますのが、清水寺でございます。
坂上田村麻呂将軍の開墓、千手観音を本尊とする所から、観音山の名が生まれたのでございます。
春は桃・桜が一時に咲き、秋は紅葉美を競うております。

松の間に見えるのが、高崎初代市長八島八郎翁の銅像でございます。
その右手の白い塔が忠霊塔で、塔の中には戊辰戦争以来の、
群馬・埼玉・長野三県下戦病死将兵の霊が祀ってございます。

山頂大空高く聳えるのが、有名な鉄筋コンクリートのモダン観音像でございます。
観音像の御背の高さは133尺、御目方159万6,000貫、御足の甲の長さ24尺、
御目の長さ3尺5寸、御裾の周囲234尺でございまして、世界一大きな観音像と言われております。
その前方の小高い松原が高崎連隊と縁深い乃木将軍の銅像建立予定地でございます。

皆さま、観音山に着きました。お待ちどう様でございました。
ごゆっくり御見物下さいませ。この車は、清水鉱泉へ参ります。


(上信電鉄百年史「ウグイスサービスは昭和11年より」より引用。)

※甍(いらか)→瓦葺の屋根のこと。



川から離れていくに従って、標高も少しずつ上がり、この小型バスと乗用車がやっとすれ違いできる
旧市街地を抜け、丘陵に上がる羽衣線(はごろも-)に入る。

観音山由来の清水寺や小さな子供のいる家族連れで賑わう観音山公園を過ぎ、
つづら折りの急坂を登って行くと、高崎駅から約20分で、観音山頂バス停に到着する。
「バス停先の左手に参道があるよ。」と運転士に教えて貰い、お礼を言って下車しよう。
なお、最寄りのバス停は二ヶ所あり、参道の仲見世を楽しむならば「観音山頂バス停」、
足腰などに不安がある場合や最短で訪問したい場合は「白衣観音前バス停」で降りると良い。

この観音山頂バス停は、丘陵中腹の平坦地にあり、観光センター、市営有料駐車場、
高崎市街が見える展望台(最上段の画像)、戦病死者の慰霊塔がある。

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(観音山観光センターと市営駐車場。足跡のペイントは、実物大の観音様のもの。)
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(戊辰戦争以降の戦病死者を慰霊する忠霊塔。現在は、平和塔と名付けられている。)

駐車場の縁にある展望台で、高崎市街を眺めた後、参道を登ってみよう。
然程、きつい傾斜でななく、緩やかな長い坂が450m程続いている。
市街地からもかなり離れており、鬱蒼と木々が茂っているので、とても静かだ。
参道の入り口から、昭和の雰囲気の土産店が点在し、タイムスリップした感じが楽しい。

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(駐車場から参道入口へ。)
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(参道の仲見世。廃業した店もあるが、幾つかは今も営業し、のんびりとした昭和の時間が流れる。)
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(参道の石畳にも、観音様の足跡が所々に嵌め込まれているのも、面白い。)

長い参道を登りきると、バス停もある少し開けた平坦地に出る。
大観音真下の場所で、もうひと頑張りの45度近くある急坂が最後のミッションである。
急坂の途中に、一軒だけへばり付く様に建っている土産店が・・・
横から見ると、床下は崖から突き出した柱だけで、神社の懸造りの様な凄い建て方になっている。
なお、この大観音門前では、「ひっぱたき」と言われる、味噌おでんが名物になっているそうだ。

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(急坂の途中にある観音みやげ松風。年配のお母さんと猫が迎えてくれる名物店だ。)
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(名物の高崎達磨も、年間を通じて販売されている。ミニサイズならば、1,000円以下で買える。)

観音山頂バス停から徒歩約10分で、真言宗慈眼院(じげんいん)と言う大きな寺院に到着、
その境内に大観音が建立されている。
慈眼院は、真言宗総本山・高野山金剛峯寺(こんごうぶじ)の塔頭
(たっちゅう/本院に務める僧侶や家族が住む寺院、子院のこと)であったが、
この大観音建立後の昭和16年(1941年)に、高野山から高崎に勧請された寺院との事。
創基は鎌倉時代中期と言われ、御本尊は鎌倉由比ヶ浜ですくい上げられたと伝わる、
聖観世音菩薩になっている。

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(本堂である高崎千体観音堂。太鼓橋の下には、先程の急坂の参道がある。)
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(この本堂は、白衣観音建立50周年に合わせて、昭和61年に再建された。)
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(本堂内天井には、真鍮製の灯籠が沢山吊り下がっている。)


本堂向かいには、大観音が鎮座しており、とても美しい観音様だ。
この巨大な観音像は、昭和11年(1936年)に、
地元高崎の建設業実業家・井上保三郎氏が巨額の私財を投じ、
高崎十五歩兵連隊の戦没者慰霊と高崎の発展を願って、高崎の街を見下ろし、
汽車からもその姿が良く見えるこの観音山に建立したそうだ。
以来、高崎のシンボルとして、また、北関東の観音信仰と真言宗の中心になっており、
関東八十八カ所霊場第一番札所、国登録有形文化財(平成12年指定)にもなっている。
また、戦時中は、空襲の目標になる心配から、軍部から取り壊し命令が出たが、
高崎市民が反対して、守り抜いたと言う。

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(本堂からの高崎白衣大観音。日本的な母を感じる面影である。所々の小窓は、展望用の覗き窓。)

台座下で参拝ができるので、行ってみよう。太鼓橋を渡る。
大きなコンクリート階段を上がると、大観音の足元にたどり着く・・・見上げると、とても巨大である。
高さは41.8m、重さは5985トンあり、中は空洞になっており、
有料(大人個人300円)であるが、胎内巡りが出来、肩の高さの九階まで登れる。
所々の小窓から、関東平野や高崎の街、上毛三山、浅間山や信州の山々を眺められるとの事。

この頭を下に傾げている角度は熟考されたものだそうで、この感じが親しみが増すと言われている。
地元高崎の黒川玉竜氏が棟梁を務め、昭和10年(1935年)に着工し、翌年にスピード完成した。
鉄筋コンクリート造りであるが、肩掛け両天秤を用い、人力でセメントを運び上げたそうなので、
今以上に大工事だったのだろう。

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(足元から見上げる大観音。息災・安産・子育ての仏であるが、何でも願って良いそうだ。
   胎内には、二十体の仏像が安置されている。)

なお、アメリカ・ニューヨークの自由の女神像の本体の高さ(台座上からトーチまで)と、
ほぼ同じ高さ(46.1m/頭までは33.9m※台座部分は除く)になっている。

ちなみに、奈良の大仏は14.9m(749年建立)、鎌倉の大仏は13.4m(1252年建立)で、
関東エリアにある、高さ20m以上の巨大仏を調べてみると・・・

・牛久大仏(茨城県牛久市);高さ120m、青銅製、総重量4,000トン、平成5年(1993年)建立。
・東京湾観音(千葉県富津市);高さ56.0m、鉄筋コンクリート製、昭和34年(1959年)建立。
・高崎白衣大観音(群馬県高崎市);高さ41.8m、鉄筋コンクリート製、昭和10年(1935年)建立。
・日本寺大仏(千葉県鋸南町);高さ31.0m、磨崖仏、天明3年(1783年)建立。
・大谷平和観音(栃木県宇都宮市);高さ26.9m、磨崖仏、昭和29年(1954年)建立。
・大船観音(神奈川県鎌倉市);高さ25.4m、半身仏、昭和35年(1960年)建立。

・・・などがあり、あの牛久大仏が断トツであるが、関東エリアで三番目に大きいらしい。
終戦後の昭和20年代から30年代にかけて建立された巨大仏は、先の戦争での犠牲者を慰霊する為に
建立された仏が多いそうだ。なお、磨崖仏(まがいぶつ)とは、岩壁や崖に彫刻した石仏である。

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(正面からの大観音。春は三千本の桜に囲まれ、より美しいとのこと。)

この丘陵の北側には、高崎達磨で有名な少林山達磨寺がある。
先程の市内循環バスでも行けるが、遊歩道でも行ける様だ。
今回は、時間が足りないので訪問ができないが、機会があったら訪問したい。
高崎少林山達磨寺

時刻は、夕方の16時前。門前の土産店も、早々と店じまいを始めている。
急坂下の白衣観音前バス停から、再び市内循環バスで高崎駅に戻ろう。
少しは、御利益があると良いと思う。




右に見えるは君が代の
橋や名高き清水の
観音山の階(きざはし)よ
小林山もこのあたり

上信電鐵鐡道唱歌より/北沢正太郎作詞・昭和5年・今朝清氏口伝。
※作詞は、観音像の建立前である。汽車から観音山が良く見えた事が判る。



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(※)長野新幹線開業により、横川-軽井沢間は廃止、軽井沢以西はしなの鉄道に転換されている。

高崎白衣大観音観光は、同年秋の再訪問時(夕方前)の取材になります。
本取材時とカメラの機種が違うので、若干色調が異なります。ご了承下さい。

【参考資料】
現地観光案内板・解説板
高崎白衣大観音・慈眼院公式HP
土地条件調査解説書「前橋及び高崎地区」(国土地理院発行・2010年)
「上信電鉄百年史-グループ企業と共に-」(上信電鉄発行・1995年)

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