hmdの鐵たびブログ ローカル線の旅

のんびりローカル線の鉄道旅を、写真を中心に「見る紀行文」で長期連載しています。

【317】かぶらの里、シルクの鉄路・・・上信電鉄(15)上州一ノ宮駅下車観光 一之宮貫前神社  


このまま途中下車をし、一之宮貫前神社(いちのみやぬきさき-)まで、行ってみよう。
中年の女性駅長氏に尋ねると、徒歩で15分位だそうだ。

古くからの門前町であり、下仁田道の宿場町でもあった一ノ宮は、
上野鉄道(こうずけ-)が開通時の人口は3,000人程で、商業も盛んだったそうだ。
今は、その面影も久しく、静かな町になっている。

群馬県内では、最も古い国幣社(こくへいしゃ※)である一之宮貫前神社は、
知名度も高く、かつては多くの参拝者で賑わったそうだ。
貫前(ぬきさき)の名は、平安時代中期に編纂された百科辞典である、和名抄(わみょうしょう)に
記載されている地名が由来であるが、現在の神社名は明治以降の改称である。
古い書物には、抜鉾神社(ぬきほこ-)や抜鉾大明神と記述されており、
貫前との関連性は解明されておらず、二神二社、二神一社、一神一社の諸説がある。

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(上州一ノ宮駅の待合室に掲げれた上州かるたにも、貫前神社が詠まれている。)



町の中心地は、駅より北に見える山際の県道沿いになっていて、駅周辺の人家はやや疎らだ。
駅から真っ直ぐ歩き、国道の富岡バイパスを横断して、県道に突き当たったら、左に曲がる。
二車線の狭い道路であるが、両側に民家や商店が建ち並び、意外と交通量が多い。
かつての下仁田道であり、昔は格子のある家が並び、とても賑やかだったとの事。

南西に300m程、歩いて行くと・・・
参道の入口があり、「国幣中社貫前神社」の石碑【石碑マーカー】が建っている。
地元では、蓬ヶ丘(よもぎがおか)と言われる丘陵で、参道は桜の名所となっているそうだ。

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(国幣中社碑と参道入口。)
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(蓬ヶ丘を登る参道。もの凄い急坂で、県道209号線になっている。)

ここから、一気に上がる凄い急坂であるが、頑張って登る事にしよう。
このローカル線の旅では、古社も良く参拝するが、こんなに真っ直ぐな急勾配の参道も珍しい。

日頃から運動不足でもあり、少し息を切らしながら、登って行くと・・・
坂の途中に踊り場の様な広い平坦地があり、その先の45度もありそうな急階段の上に、
赤い大鳥居【赤色マーカー】が聳え立っている。
この大鳥居は、昭和4年(1929年)に献金により、建てられた鉄筋コンクリート製で、
翌年の昭和5年(1930年)に作られた、上信電鉄の鉄道唱歌にも詠われている。

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(大石段と大鳥居。西側には、車が通れる迂回路がある。)

西側に坂道もあるが、大鳥居を潜るのが正しい参拝であるので、急な石段を登り切ると・・・
平坦な幅の広い石畳参道となり、少し安心する。
なお、たったの水平距離170mで、30mも登る急勾配になっており、まるで山登りの様だ。

70m程北に歩くと、菊の御紋の帳を下げた総門【青色マーカー】の前に到着する。
高さ約4mもある唐銅製燈籠(からがねせいとうろう)が左右一対あり、
江戸時時代末期の慶応元年(1865年)に、地元養蚕農家や生糸・製糸業者の献金で建てられ、
芸術的価値も高い事から、太平洋戦争中の金属供出も免除されたそうだ。
なお、この燈籠建立の7年後に、富岡製糸場が開業している。

また、総門の右には、「蛙の木」と言われる霊木がある。
太平洋戦争の戦況が悪化していた昭和18年(1943年)、蛙の形をしたサルノコシカケが生え、
主祭神由来の勝ち蛙「戦争に勝って、郷里に帰る。」の縁起木として、
出征兵士やその家族の参拝が多かったそうだ。今は、交通安全の縁起木に変わっているとの事。

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(総門と唐銅製燈籠。蛙の木は、楠の仲間のタブの木である。)

この総門を潜れば、拝殿や本殿【鳥居マーカー】に着くと思いきや・・・
何と、今度は下りの急階段であり、とても驚く。

鳥居や門よりも、本殿が低い位置にある神社は大変珍しく、下り宮と言われるらしい。
通常は、家の中に祀られる神棚と同じ様に、高御座(たかみくら)で祀る。

島根の出雲大社も有名であるが、他に草部吉見神社(くさかべよしみ-/熊本県阿蘇郡高森町)と
鵜戸神宮(うど-/宮崎県日南市)も下り宮になっており、
出雲大社は別格として、この貫前神社と併せ、「日本三大下り宮」になっているそうだ。
なお、下り宮であるのは、草部吉見神社は池の底、鵜戸神社は海岸の洞窟にある為だそうだが、
貫前神社は良く解っていないらしい。

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(総門からの下り石段。客席に見立てた、石段コンサートと言う催しもあるそうだ。)

登り参道とは対照的な、日陰のしっとりとした空気を感じる石段を降りて行くと・・・
「ここは神域である。」と言う霊気をとても感じる。
この谷は、菖蒲谷(別字・綾女谷/あやめがだに)と言われているそうだ。
なお、煩悩の数と同じ108段の石段だったそうだが、今は付け足されているとの事。

石段の最下段到着すると、真正面に楼門がある。
門前は大変狭く、手水舎や社務所が隣接して建っているので、とても窮屈な感じだ。
門下に賽銭箱が置いてあり、一般参拝者は、ここで参拝する事になっている。

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(楼門。入母屋造りの銅板葺きで、左右に回廊を擁す。
   昭和4年(1929年)に、杮板葺きから現在の銅葺き替えられた。)

参拝後、左右の木戸から楼門を通り抜けると、拝殿の前まで行く事が出来る。
拝殿は、軒下に極彩色の装飾が施された見事なもので、その美しさに魅入る。

楼門、拝殿と本殿は、徳川三代将軍の徳川家光の命により、寛永12年(1635年)に造られ、
元禄11年(1698年)に五代将軍綱吉によって、大修理と漆塗り極彩色の装飾が施されたそうだ。
江戸時代初期の豪華な寺社建築様式であり、あの日光東照宮にも、通じるものであろう。
なお、この三つの建物は、国指定重要文化財になっている。

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(拝殿と本殿。平成の大修理を行ったので、状態はとても良い。)
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(拝殿正面出入口。入母屋造り、平入、檜皮葺き、唐破風二重重縁と言う様式である。)
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(拝殿の極彩色装飾。本殿にも、同様の装飾が施されている。※トリミング拡大。)

拝殿の後ろに内垣に囲まれた本殿があり、入母屋造り、妻入り、檜皮葺き屋根になっている。
一階建てに見えるが、内部が二階建てになっている「貫前造り」と言う独自の様式だそうだ。

また、本殿の後ろに、藤太杉(とうたすぎ)と言う、樹齢1,200年と言われる大杉がある。
天慶2年(939年)の平将門討伐(※)為に出征した、藤原秀郷(ひでさと)が戦勝祈願として、
年齢と同じ36本の杉を奉納したうちの1本とされる。

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(本殿。軒下に雷神小窓と言う装飾窓があり、眷属の雷神が出入りすると言われる。)

この貫前神社の創祀は大変古く、今から1,500年前に鷺宮(さぎのみや/現・安中市)に
物部姓磯部氏が氏神を祀ったのが始まりで、この菖蒲谷には、西暦531年に建立されたそうだ。
御祭神は、日本書紀にも記されている建国の男神、物部氏の氏神である経津主神(ふつぬしのかみ)と、
当地の守護神・養蚕機織りの女神である、姫大神(比売大神/ひめおおかみ)の二柱であり、
養蚕機織りの技術は仏教伝来と共に伝えられた事や、その姫大神を祀る事から、
元々は大陸渡来系の神社との説もある。
なお、屋根上の千木(ちぎ※)が、地面と水平になっている内削ぎで女神を示す事から、
本来の主神は姫大神ではないかと言う説がある。
しかし、鰹木(かつおぎ※)は奇数の五本で、男神を示しており、千木と一致していない。

飛鳥時代後期の天武天皇の頃には、京まで貫前神社の名が知られていたそうで、
平安時代の神社一覧である「延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)」にも記載(※)され、
貴族や後世の有力武家からも、厚い信仰が寄せられていた。
戦国時代では、国境を越えて、越後国上杉家、甲斐国武田氏や相模国北条氏も庇護したとの事。
明治以降は、国幣中社(こくへいちゅうしゃ※)に指定され、
経津主神が武勇に大変優れる事から、戦地に赴く兵士やその家族からの信仰も厚かった。

また、伊勢神宮と同様に式年遷宮を行うそうだ。
飛鳥時代後期の天武天皇の頃に始まり、平安時代には、伊勢神宮の様に社殿を建て直していた。
古くは30年周期だったそうだが、独特な谷地形もあって老朽化が早く、その後に7年周期になり、
費用調達が大変である事から、安土桃山時代の天正年間に12年周期に改められている。
安土桃山時代以降は、小さな仮社殿を境内に建て、申年の12月に仮社殿に遷座し、
三ヶ月後の翌酉年の3月に本殿遷座祭を執り行う、ごく短期間の遷宮になっている。
また、古社である事から、鹿の骨を使う占い等の古式特殊神事の祭儀も多く、
祭儀中に一言でも口をきいてしまうと、死ぬと言われる恐ろしい神事もあるそうだ。

なお、上州の有名神社としては、赤城神社もあり、こちらの方が県外にも良く知られているが、
あくまでも、この貫前神社が、「一ノ宮」となっている。
絹機織りをしていた赤城神社の神が、生糸が足りなくなった為に貫前神社の神に借りに行き、
その御礼に一ノ宮の地位を譲り、赤城神社は二ノ宮になったユニークな伝説がある。

楼門の東側には、広場があり、神楽殿や宝物館(見学有料)がある。
神楽殿は、江戸時代中期の元禄年間のものと言われているが、こちらは質素な造りである。
また、本殿西の高台には、末社と遷宮時の仮殿敷地がある。

なお、この神楽殿の東には、神宮寺(別当寺/べっとうじ※)や三重塔等もあったが、
明治維新直後の廃仏毀釈・神仏分離により、徹底的に破壊され、廃寺となっているそうだ。

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(神楽殿。)

石段の下段西側には、末社の月譚神社(つきよみ-)が鎮座している。
寛永12年(1635年)に旧本社拝殿を移築し、牛王堂(※)として使っていたもので、
明治政府の神仏分離政策により、月讀神社に改称したらしい。
また、近隣の氏神を合祀し、主祭神の月夜見命(つくよみのみこと)の他、十七柱も祀っている。

なお、月夜見命は女性的なイメージがあるが、一般的に男神とされており、
天照大御神(あまてらすおおみかみ/女神である)の弟神と言われている。
農耕の神であり、人の心の裏側を読むそうだ。

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(月讀神社。月讀神社の数は、全国的に大変少なく、珍しいそうだ。)

駆け足気味であるが、石段を再び登って、駅に帰る事にしよう。
まるで、世俗世界に戻る様に大鳥居まで引き返すと・・・
斜陽に照らされる甘楽(かんら)の町並みと、向こうに御荷鉾(みかぼ)の山々が一望できる。
この上り下りの参拝の褒美と感じ、とても清々しい気持ちになった。

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(石段下から見上げる楼門。)
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(大鳥居からの大展望。)



一之宮貫前神社公式HP



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(※国幣社・国幣中社)
7世紀後半から10世紀頃までの律令制下において、朝廷や国司から公認され、援助を受けた神社。
明治時代以降も再編され、政府(国)からの援助を受けたが、太平洋戦争後に解体された。
(※延喜式神名帳)
律令の細則を定めた延喜式の九・十巻には、朝廷が公認した神社(官社)を記載している。
反朝廷、神仏合祀や独自勢力の強い神社は認められなかった。
(※平将門討伐/平将門の乱)
承平5年(935年)から天慶3年(940年)に、関東の豪族であった平将門が起こした反乱。
平将門は相続問題から、叔父の国香を殺害し、関東の国司達も次々に追放した。
後に関東八国を掌握し、新皇(しんのう)を名乗り、当時は朝廷に敵対する大事件だった。
国香の子である平貞盛や下野国の武将である藤原秀郷が、将門を討ち取っている。
(※千木・鰹木)
本殿の大棟の両端に長い木を交差してある装飾が千木で、
先端の切断面が、地面と水平の場合は女神、垂直の場合は男神を表す。
また、大棟上の等間隔に配された丸太状の装飾を鰹木と言い、奇数は男神、偶数は女神を表す。
(※別当寺・神宮寺)
江戸時代以前の神仏習合時代の神社を管理する仏寺の事。
当時、「神=仏」の考えがあり、別当寺の住職(別当)の方が、宮司よりも上位であった。
(※牛王堂)
疫病を払う習合神・牛頭天王(ごずてんのう)を祀っていたと考えられる。
京都八坂神社(祇園社)の祭神として有名であるが、明治政府の神仏分離が厳しかった。

【参考資料】
 現地観光案内板
 一之宮貫前神社公式HP
「伝説/神道集・巻第七・36話・上野国一之宮事」(赤城神社公式HP)
「一之宮貫前神社観光パンフレット」(一之宮貫前神社社務所発行)

2016年12月23日再編集(画像入れ替え高解像化・校正)

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category: 上信電鉄1日目 全17話

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