hmdの鐵たびブログ ローカル線の旅

のんびりローカル線の鉄道旅を、写真を中心に「見る紀行文」で長期連載しています。

【302】塩田平を行く、信州の鎌倉へ・・・上田電鉄別所線(9・最終回)上田駅下車散策 上田城址と北国街道。  


大湯下の足湯から、別所温泉駅に戻ってきた。時刻は、15時半を過ぎた所だ。
「信州の鎌倉」の中心地である、別所温泉の散策を楽しんだ後は、起点の上田駅まで戻ろう。
帰りの新幹線乗車まで、上田駅周辺の代表的な観光地も、少し散策してみたいと思う。

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(別所温泉駅。最初に乗車した1003編成「自然と友達2号」が、ホームで待っていた。)



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別所温泉1541======1610上田
上り普通・上田行き(1000系1003編成2両編成「自然と友達2号」)
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再び、1003編成「自然と友達2号」に乗る。
この別所線も見納めなので、美しい塩田平の車窓をじっくりと眺めよう。
乗車30分程で、起点の上田駅に戻り、北側のお城口に向かう。
散策の前に、駅構内の観光協会に立ち寄って、見所を教えて貰い、ガイドマップも入手する。

この上田は、天正11年(1583年)に、真田昌幸が千曲川の辺りに上田城を築いた事から始まる。
武士や商人の町を計画的に建設し、周辺の人々を移住させて、大きな城下町として発達していった。
江戸時代になると、中山道の脇道である北国街道の宿場町としても栄え、
鳥居峠に向かう上州街道(現・国道144号線)の分岐地点でもある事から、
人や物資の集散地として、また、農具や鋳物の取り引きが盛んだったそうだ。
明治以降は、養蚕業や製糸業が盛んとなり、長野市以南の千曲川上流域で、
最も大きな都市になっている。

なお、真田氏の元々の本拠地は上田市街ではなく、上田から北東にある山間部になっており、
真田の地名と真田本城や真田家由縁の古寺等が、数多く残っている。
また、昭和47年(1972年)までは、上田駅から上田交通真田傍陽線(-そえひ-)が結んでいた。



先ずは、この上田のシンボルである、上田城址【名勝マーカー】に行ってみよう。
真田氏が山中から移転した後の居城であり、現在は、市民が憩う大きな公園になっている。

駅から、徒歩約15分で到着。徳川の大軍を二度も退けた名城として、大変有名である。
なお、二度もの実戦を歴史に持つ近世城は、大変珍しいとの事だ。
今では、1,000本の桜が植えられ、市内一の花見の名所になっている。

昔、傍陽線の線路が下に敷かれていたと言う、外堀に架かる二の丸橋を渡り、
水を湛えた内堀を渡る橋の先に、大きな二階建ての櫓が見えてくる。
築城した当時のものではなく、江戸時代中期の上田藩主・仙石忠政(せんごくただまさ)が、
寛永3-5年(1626-28年)に再建したもので、西櫓と合わせて、長野県の県宝になっている。
なお、中央の東虎口門櫓と塀は、明治初期の古写真と発掘調査で得られたデータから、
平成6年(1994年)に復元されたものとの事。

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(上田城北櫓・東虎口櫓門・南櫓。有料であるが、櫓の中も見学できる。※12-3月は閉館。)
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(城門にあたる東虎口櫓門。右手に、3mもある真田石と言う要石が、石垣に組み込まれている。
   信之が松代に転封される際、父の形見に持って行こうとしたが、微動もしなかったそうだ。)

この上田城は、意外でもあるが、徳川家康の援助で築城されたそうだ。
しかし、豊臣秀吉に対する戦略から、上州沼田を小田原の北条氏に譲る命令が、
徳川家康から発せられたが、真田昌幸は拒否し、越後の上杉景勝に援助を求めた。
それが原因となり、天正13年(1585年)8月、徳川軍7,000人が上田城を攻撃したが、
わずか2,500人の兵で撃退し、真田軍が勝利した第一次上田合戦が起こっている。

また、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、父の昌幸と次男の幸村は石田方(西軍)、
和睦後に徳川家臣になっていた長男の信之は徳川方(東軍)になった。
これは、大きな戦で真田家が断絶するを、防ぐ為だったとも言われている。
徳川家康の三男・秀忠(ひでただ/後の江戸幕府二代目将軍)が率いる約4万の大軍を、
七日間も上田に足止めをし、関ヶ原に間に合わせなかった、第二次上田合戦も有名だ。

関ヶ原が決した後、石田方(西軍)の昌幸と幸村は高野九度山に幽閉され、
徳川因縁の上田城は徹底的に破壊されてしまった。
長男の信之は、郷里の上田を拝領し、現在の県立上田高校の場所に屋敷を建てて、藩政を行った。
しかし、元和8年(1622年)に、信之は松代に転封となり、上田を去る事になる。
その後、仙石氏、松平氏が藩主となり、その時期に上田城の一部再建が行われている。



東虎口櫓門を潜り、城内に入ると・・・
徳川の廃城棄却と明治初期の政府払い下げにより、城内に残存する建築物は殆ど無く、
本丸の天守閣は現存していない。
現在は、真田父子や歴代藩主を祀る真田神社【鳥居マーカー】が鎮座し、緑の多い公園になっている。

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(真田神社。策略を講じ、大軍を二度に渡り撃退した事から、智慧の神として親しまれている。)

なお、関ヶ原の戦いの後、郷里上田の統治を命じられた信之は、城の近くに居館を構えている。
焼失後、後の藩主の松平氏が再建したもので、明治維新まで移転せず、表門・土塀・堀が残っており、
県立上田高校の正門になっている【赤色マーカー】(学校敷地内は見学不可)。

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(上田藩主居館跡。敷地は県立高校になっており、長野県最大の薬医門が残っている。)
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(真田時代の面影を残す土壁と壕。堀の幅は道路拡張の為、狭められているそうだ。)

城周辺には、昔の建物も少し残っている。
観光会館隣りのハイカラな洋風建築は、大正4年(1915)年に建てられたもので、
上田市立図書館や石井鶴三美術館として使われていたそうだ。
現在は、蚕都上田プロジェクトの文化活動拠点・蚕都上田館(さんと-)【青色マーカー】として、
市民や観光客の交流センターになっているとの事。

なお、生糸(絹糸)の海外輸出は、上田産が初めてだったそうだ。
安政3年(1856年)の横浜港開港当時から、上質な上田糸・依田糸が、
ヨーロッパやアメリカに大量に輸出され、上田も大いに栄えた。
明治から昭和初期まで、この生糸の輸出により近代化と国力増強を進め、
繭を担保にした銀行貸付も盛んに行われて、金融業も発達していったのである。
また、中央東線や高崎線等、生糸を輸送する為に建設された鉄道も多い。

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(蚕都上田館。アール・ヌーヴォーの流れを汲む、上田全盛期の洋館である。)



上田城から北東の国道18号線南側に、柳町と言う北国街道の町並み【カメラマーカー】があるので、
行ってみよう。
柳が多かったこの通りには、旅籠や商家が軒を連ね、呉服屋だけでも25軒もあり、大変賑わった。
白い土塀や格子窓のある旧家も残っており、造り酒屋や味噌蔵がある。

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(柳町入口付近。ここから200m程、北に向かっている。)

江戸末期から明治にかけての平入り二階建ての町家が、南北通りの西側に多く建ち並んでいる。
屋根や軒の高低差が少なく、長短の格子が合わさった親付き切り格子や卯建(うだつ)が見られ、
その幾つかは店屋として営業している。

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(造り酒屋の岡崎酒造【酒マーカー】。江戸時代初期の寛文5年・1665年創業とのこと。
   ブランドは、「信州亀齢(きれい)」。岡崎酒造公式HP
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(旧呉服屋を改築したカフェの森文。明治9年建築で、かつては、郵便局としても使われていた。)
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(寝具店の山崎綿店。立派なうだつのある造りになっており、カフェを併設する。)

暫く、歩いて行くと・・・保命水【噴水マーカー】と言う、共同水道がある。
明治14年(1881年)に、近くの山から木管で水を引いた用水で、当時、南側にも水屋があったとの事。
大正末期に、近代的な上水道が敷設されるまで、利用されていた。

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(保命水。水受けは石造である。)

保命水前の北国街道が曲がる場所には、地元味噌醸造所の武田味噌【黄色マーカー】がある。
昭和の初めに創業した新しいメーカーであるが、大豆の旨味を活かす味噌作りをしているそうで、
その辛さの中に甘みが奥にある味わいが特徴との事。
また、寒さの最も厳しい時期に仕込んだ「大寒特別仕込み味噌」が、
現地限定販売されており、名物になっている。
信州・武田味噌公式HP

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(武田味噌直販所「菱屋」。)

武田味噌の先には、明治18年(1885年)に、明治政府の国家神道によって建立された、
上田大神宮【祈りマーカー】が鎮座している。
この交差点から大神宮までの直線の道路は、建立時に造られた参道の跡で、杉並木があったそうだ。
今は、杉は全て枯れてしまい、建立時に植樹された松【緑色マーカー】が、一本だけ残っている。

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(上田大明神と参道跡。)
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(地元では、「名残の松」と言われている。ここから、杉並木が始まっていたそうだ。)

当時は、柳町大神宮と呼ばれ、明治時代には全国各地に建立された。
長野県は、この上田柳町が選ばれ、今でも地元から親しまれているそうだ。
当時は、8,000坪の広大な境内であったが、現在はその1/4程度になっている。



上田駅に戻ろう。この宿場町も、斜陽になってきた。
まだ、17時前であるが、山国の夕暮れはとても早い。

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(柳町の通りから、南を望む。)

上田駅に戻って来た。
17時42分の上り東京行き「あさま542号」の自由席を手配する。
新幹線改札口横に大きな売店あるので、土産の手配をしよう。
駅弁もあるかと探すと・・・あった。勿論、購入する。

上田駅新幹線1番線ホームから、定刻に発車する。
今日は、街歩きの距離も多く、とても空腹なので、少し早い夕食を食べる事にしよう。
ひしや弁当店「栗おこわ弁当」(税込860円)である。
元々は、国鉄時代からの小諸駅の名物駅弁であったが、構内販売撤退の為、
この上田駅で販売する様になったそうだ。
最近は、駅弁フェアやテレビ等でも、上田駅の駅弁と紹介される様になっている。

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(ひしや弁当店「栗おこわ弁当」の掛け紙。)

早速、食べてみよう。
飯は山菜栗おこわで、モチモチとしたもち米に大きな栗が二粒分入っており、
ごぼうサラダ、鶏唐揚げと漬物が付いている。
甘めの茶飯だが、コクがあり、食べると・・・パァと上品な栗の美味しさが、口に広がる。
なお、小諸駅前に直営食堂があり、温かい栗おこわも食べられるそうだ。

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(栗おこわ弁当の盛り合わせ。)

列車は、高速運転のブーンと言う風切音を立てながら、一路東京へ向かっている。
次の軽井沢駅からも、帰りの観光客が沢山乗り込んできた。
あと1時間で、上野駅に到着するので、あっと言う間だ。
今度は、是非、別所温泉に泊まりで訪問したいと思う。

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上田1742======1906上野
長野新幹線上り東京行き・あさま542号
E2系N3編成8両編成(1号車自由席4A席)
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(終)



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【取材日】2014年5月16日
【カメラ】PENTAX MX-1

【参考資料】
現地観光案内板
まちなか散策マップ「歩こう信州上田城下町」(上田市観光課発行・2013年)
上田市公式HP「上田城の歴史」

2016年12月25日再編集(画像入れ替え高解像化・画像追加・文章追加・校正)
2016年12月25日再編集(シリーズ全体の調整)

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category: 上田電鉄別所線 全9話

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