hmdの鐵たびブログ ローカル線の旅

のんびりローカル線の鉄道旅を、写真を中心に「見る紀行文」で長期連載しています。

【232】あかがねの鉄路を追って・・・わたらせ渓谷鐡道(40)足尾本山観光[その2]足尾精錬所と貨物線跡。  




わたらせ渓谷鉄道の終点・間藤駅から徒歩30分程で、
「本山」こと、足尾精錬所【工場マーカー】に到着する。
巨大な工場は、U字谷状になっている、松木川を挟んだ対岸の斜面にある。
なお、この大きな工場内に、廃止された足尾本山駅がある。

この足尾精錬所は、産出する銅の増加により、
昭和17年(1942年)に、直利橋精錬分工場(なおりばし-)として、建設された。
当時の最先端技術を採用した工場だったが、精錬時に大量の亜硫酸ガスを排出した事から、
大規模な煙害問題(公害)を引き起こした事で有名である。
足尾銅山の表の栄華と、暗い公害の歴史を背負う工場でもある。


(赤倉地区から、足尾精錬所を望む。)

松木川に架かる橋から、工場北側を望むと、事務所棟らしい建物や大きな煙突が見える。
備前楯山をはじめ、周辺の山には、木々が大変少ない。公害の大きさを実感できる。
近年、少しずつではあるが、植林事業の効果が上がってきており、緑も戻って来ているそうだ。


(事務所棟と大煙突。)

ここで、足尾銅山の歴史に、簡単に触れたいと思う。
この周辺は標高700mの高所であり、銅が発見されるまでは、寂しい山村だったそうだ。
関ヶ原後の慶長15年(1610年)、地元のふたりの農民・治部(じぶ)と内蔵(くら)に
よって、銅が発見されてから、足尾銅山の歴史が始まっている。
なお、この山は黒岩山と呼ばれていたが、このふたりが備前国出身(現・岡山県)である事から、
発見した功績を讃え、「備前楯山」と改められた。
また、「楯」とは、銅鉱脈が地面に露出している所を指すとの事。

その後、江戸幕府直轄の銅山として大いに栄え、「足尾千軒」と言われる程の町並みが出来た。
国内の城郭・寺院の銅瓦や銅貨・寛永通宝(足尾銭)の鋳造に使われ、
海外にも輸出された事から、江戸幕府の財政を潤したと言う。
しかし、江戸時代末期になると、銅の産出は激減し、廃山状態になってしまった。

明治時代に入ると、一旦、国有化される事になった。
明治10年(1877年)、実業家・古河市兵衛氏に銅山が払い下げられてからは、
西洋近代化を急速に進め、豊富な銅を含む大規模な鉱脈(直利/なおりと言う)が、
新発見された事から、再び、大銅山として返り咲いた。
最盛期は、国内の銅の半分を産出したそうで、「東洋一の銅山」と言われたが、
太平洋戦争時に大部分を掘り尽くしてしまい、戦後は産出量が激減した。

そして、開山から約400年経った、昭和48年(1973年)2月に閉山。
その後、国鉄足尾線で輸送された輸入銅鉱石を使って、精錬工場のみが稼働していたが、
昭和63年(1988年)に中止となり、足尾銅山の歴史の幕が降りている。

公害については、学校の教科書にも取り上げられ、大変有名である。
明治以降は、大規模な公害反対運動も繰り広げられ、政府も対応を重ねて来たが、
当時の公害防止技術は未熟で、とても間に合わなかったそうだ。
特に、亜硝酸ガスの完全脱硫技術確立は、昭和31年(1956年)まで、待たなければならなかった。
渡良瀬川や利根川の銅イオンによる水質汚染、周辺の山々の禿山化、強制廃村もあったが、
外資を稼ぎ、当時の日本の近代化を進める原動力のひとつであった事や、
世界トップレベルの日本の公害防止技術と、その意識の確立にも大きく寄与している。



精錬所の南側は、巨大なプレハブ風壁の建物になっていて、建物の裏側に駅がある。
北側には、木造三階建てと思われる、カラフルな外装の事務所棟らしい建物や大煙突が見える。
工場は稼働していないが、現在、廃坑管理や銅イオンを含む坑道排水の浄化処理、
他の古川機械金属所有の鉱山の管理を行なっているそうだ。

工場の北寄りにある、コンクリート製の大煙突は、この足尾精錬所のシンボルになっている。
大正5年(1916年)、銅の溶鉱を溶鉱炉方式から反射炉方式に切り替える為に建設されたもので、
当時の計画では、1日350tの処理能力を見込み、建設予算は約22万円(※)だったそうだ。
しかし、煙突内での煙の詰まりが激しく、反射炉による溶鉱は2ヶ月で中止され、
以降、煙突は無用の長物になったとの事。高さは46.9m、直径は下部5.8m・上部3.9mある。


(事務所棟と大煙突。※新古川橋から望遠撮影。)

松木川を渡って、工場側に行ってみよう。
コンクリート橋上流側に、木床張りの立派な古川橋【橋マーカー】がある。

明治18年(1885年)に、木造橋の「直利橋(なおりばし)」が架けられたが、
その二年後の大火で焼失した為、明治23年(1890年)に架け直された鉄橋である。
この付近の交通量増加や防火対策の為、ドイツ・ハーコート社の鉄橋を輸入した。

橋を支える橋台は煉瓦積み、木床、ボストリング・ワーレントラスのピン結合方式である。
長さは48.5m、幅員4.8m(有効3.6m)あり、足尾鐡道(後の国鉄足尾線)が開通する前は、
日本初の電気鉄道のレールが敷かれていた。
初期の輸入鉄橋であり、移設もされていない事から、大変貴重なものになってる。
また、日光市の指定文化財になっており、老朽化の為に渡橋禁止になっている。


(古川橋。)

橋からの町道の先には、工場前に架橋されている、元・足尾線の出川橋梁がある。
ここは、松木川とその支流の出川の合流地点でもあり、
出川を跨ぐ長い主橋と町道を跨ぐ、短い二連デッキガーター鉄橋になってる。
なお、九州鉄道からの払い下げ鉄橋で、足尾鐵道開通時の大正3年(1914年)8月開通、
橋長は54.8mになる。

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(出川橋梁。)

出川橋梁を潜り、坂を少し登ると・・・
右手に土手を登る小道があり、フェンス越しに、足尾本山駅が見える場所がある。
貨物専用駅なので、乗降ホームは無く、幾つかの側線と古い平屋の木造建物、
手動転轍機(ポイント)や腕木式信号機が残っている。
ここだけが、モノトーンな風景であり、当時のままの時間で止まっていて、
とても不思議な感じがする。
なお、間藤駅から足尾本山駅への貨物列車は、1日4〜5往復だったそうだ。

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(足尾本山駅跡。)

なお、この足尾精錬所の北側には、有害物質を含む土泥等を貯蔵する高原木貯積場や、
巨大な足尾砂防堰堤(ダム)、足尾環境学習センターと親水公園がある。
時間があれば、見学をしたい所だ。

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(日光連山と松木川。)



この大工場を見学した後は、間藤駅に戻ろう。
再び、赤倉地区の中を通り、長い坂道をゆっくりと下る。
家々は多いが、とても静かで、ぽつんと、昭和レトロな洋品店も・・・。



(赤倉地区の町並みと古い洋品店。)

新古川橋下流の南橋橋(なんきょうばし)を渡って、備前楯山側の対岸を見てみよう。
橋を渡って、突き当りのT字路を右に曲がり、盛土高台の廃線を見ながら歩くと・・・
絶壁に掘られた、古いトンネルと錆びた腕木式信号機【トンネルマーカー】が見える。
足尾線最後のトンネルであり、此処を抜けると、工場前の出川橋梁に接続する。

向赤倉トンネルと言い、下部は切石積み、上部は煉瓦積み、全長約36mの馬蹄型である。
このトンネルと錆びた腕木式場内信号機は、足尾線の廃線区間イメージを決定づける、
有名撮影スポットになっている。

IMGP3486.jpg
(向赤倉トンネル跡と腕木式信号機。※低倍率光学ズームで撮影。)

向赤倉トンネルの南方には、南橋鉱山住宅(なんきょう-)が、建ち並んでいる。
かつて、この南橋地区は、福長屋(ふくながや)と言われていたそうだ。

足尾銅山のオーナー・古河市兵衛氏が、坑夫達の為に建てた社宅で、当時は大変栄えたそうだ。
現在は、日光市の市営住宅になっており、空き家も多いが、当時の雰囲気を色濃く残している。
トイレと風呂は共同であり、今も、住人の連帯感が強いらしい。
なお、当時の屋根は、防水の為にコールタールを塗っていたので、黒色だったとの事。



(南橋鉱山住宅。空き家が目立つが、状態は良い。)



県道に戻ろう。深沢郵便局前を過ぎて、上間藤地区に入る。
松木川に架かる上間藤橋も渡って、対岸の小学校の方に行ってみよう。
山際の雑木林の中に、レールや小鉄橋が残っており、間近に見る事が出来る。


(山際の小さな鉄橋跡。名称は不明である。)

実は、平成元年(1989年)に、わたらせ渓谷鉄道が発足した際、
間藤から足尾本山間の1.9kmは、休止線として継承しており、観光化する構想もあった。
しかし、平成10年(1998年)に、間藤から足尾本山間の鉄道事業免許が失効した事から、
廃線が確定し、それも夢に終わっている。
おそらく、閉山後の地元利用客が見込めない事や、足尾駅以北の列車交換設備が無く、
ディーゼル機関車牽引のトロッコわたらせ渓谷号の機回しが出来ない事、
私企業の敷地内に足尾本山駅がある為、実現が難しかったのだろう。

小学校の手前に、巨大なリベット留めの黒い鋼製プレートガーター道路橋があり、
その下を覗くと・・・足尾線の線路とトンネルが残っている。


(小学校手前のリベット留めの道路橋。)

この向間藤トンネルは、内部の下部は切石積み、上部は煉瓦積み、全長約211mである。
ポータルはコンクリートで固められ、断面はU形なので、後年に改修されたのだろう。


(足尾本山方の向間藤トンネル。)

この橋の下には、木造の保線小屋跡があり、国鉄足尾線最急の30パーミルの急勾配になっている。
長く重い貨物を牽引した、国鉄C12形蒸気機関車や国鉄DE10形ディーゼル機関車が、
踏ん張りを見せた場所と思われ、今にも、貨物列車がやって来そうな雰囲気である。
なお、最後に貨物列車が走ったのは、国鉄民営化直前の昭和62年(1987年)3月になる。


(間藤方の足尾線最急勾配の線路。)

なお、この先の本山小学校は、既に閉校しており、非公開になっている。
明治25年(1892年)に、私立足尾銅山尋常小学校として、古河市兵衛氏が設立したそうだ。
戦後直ぐに、公立足尾町本山小学校になり、平成17年(2005年)に、足尾小学校に統合となった。

敷地内には、昭和15年(1940年)築のハーフティンバー風木造講堂があり、
当時、小学校に講堂が建設されるのは、大変珍しかったそうだ。
(※平成28年(2016年)に、国登録有形文化財に指定されている。現在は一般非公開。)

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(旧本山小学校の木造講堂。※トリミング拡大済み。)

小学校の所で、道路は行き止まりになってる。
橋まで戻り、間藤駅に向かって歩いて行こう。



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(※)
大正初期の1円は、今の約5,000倍の価値があった。
当時の22万円は、現在の貨幣価値の11億円程度になる。
ちなみに、当時の山手線初乗り運賃は5銭(0.05円)、幕の内駅弁は20銭(0.2円)程度。

【参考資料】
現地観光案内板
足尾銅山略図(日光市発行・平成20年)

2016年1月12日再編集
2016年12月13日再編集(文体変更・文章追加・画像整理)

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category: わたらせ渓谷鐵道2日目 15話

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