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【171】信州松代、あるローカル線の最後の秋に訪ねて・・・長野電鉄屋代線(16)松代歴史名所観光 その2 武家町エリア 後編  



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見事な庭園をたっぷりと楽しんだら、真田邸を後にしよう。
外塀の水路に沿って、南に歩き、右に曲がると・・・

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(真田邸外垣と水路。)

旧家の樋口家住宅【青色マーカー】がある。
一般公開されており、表門を潜ると、主屋の玄関の黒兜が出迎えてくれる。
(市指定文化財、入場料無料、燻蒸期間は休み、9時-16時30分、撮影可。)

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(樋口家住宅。)
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(黒兜。)

樋口家は、幕末の松代藩上級武士だったそうで、藩の目付役(監査役)等を努めていた。
江戸時代末期の年間禄高は、230石(こく/報酬を米に換算したもの)、
現在の貨幣価値で1,400万円位だったそうだ。
古くは、甲斐武田家の家臣であったと、伝えられている。

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(道路側の主屋玄関周辺。)
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(土蔵。)

主屋や庭は、細やかな手入れがされており、昔の武家屋敷の様子が良く判る。
茅葺きの主屋は、江戸時代末期・文久2年(1862年)に修理された記録があり、
それ以前の建築と推定されている。意外とコンパクトで、床面積は約42坪との事。

表門、土塀、主屋、土蔵、屋敷神、庭園、水路がある典型的な武家屋敷配置になっており、
主屋南の庭園や林は、自給用の畑だったそうだ。
主屋、土蔵、長屋の三つが、市指定の文化財になっており、表門は移築されたものである。

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(南側の庭園からの主屋。)

樋口家を出て、真田邸の白壁に沿って西に歩き、枡形を越えると・・・
国指定史跡の旧松代藩文武学校【橙色マーカー】がある。
かなり大きい藩校なので、見学してみよう。
(国指定史跡、入場料大人200円、無休、9時-16時30分、撮影可。)

江戸時代末期の安政2年(1855年)、九代藩主・真田幸教(ゆきのり)が開いた藩校で、
大きな講堂や弓・槍・剣・柔の四つの専用武芸場が並ぶ。
敷地の広さは約1,600坪、建物は九棟・延べ約490坪、小学校校舎として使われた事もある。


(旧松代藩文武学校。)
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(観光案内板。クリックすると、拡大。1,024*768pixel、251kbyte)

なお、当時は庶民の学校ではなく、松代藩士の師弟が学ぶ学校であった。
8歳から14歳位までは文芸を中心に、15歳から35歳までは武芸を学んだとの事。
それまで、藩校に必須だった儒教の授業と孔子廟を廃止し、
最先端の西洋医学や西洋砲術の授業を取り入れていた。

敷地の正面奥にあるのが文学所になり、
巨大な平屋の木造建物と大きな部屋が並ぶ様は、なかなか圧巻で驚く。
東側の文学所では、漢学の講義が行われ、西側は御役所だった。
なお、建物は開校の二年前に完成したが、松代城の火災で開校が遅れたそうだ。


(文学所。)
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(講義に使われた東部屋前から西を望む。)

文学所の玄関付近以外の場所と西隣の槍術所(そうじゅつじょ)南側は、
土壁に囲まれており、外からは見えなくなっている。

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(土塀。)

文学所前の西序は、躾け方・漢方医学・西洋医学等の講義所となっている。
東序が向かい側にあり、そちらは軍学(兵法)の講義所である。

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(西序。)

文学所に隣接して、柔術所、剣術所(小屋組)、槍術所(そうじゅつじょ)、
弓術所の武道場が、取り囲む様に別々にある。
どれも立派な木造建物で、天井が高く、現代の学校体育館を小さくした感じだ。

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(敷地東側の剣術所。)
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(敷地南側の柔術所出入り口。)
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(敷地南西側の弓術所。)

弓術所では、中年女性が、ひとり静かに的を射ていた。
この藩校も、明治維新後の明治2年(1869年)に、西洋兵法の士官学校となったが、
明治4年(1871年)の廃藩置県後に松代小学校になり、これらの武芸場も教室として使われた。

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(的を射ている女性。)

文武学校の門を出ると、直ぐ左手に、旧白井家表門【緑色マーカー】がある。
(市指定文化財、入場無料、9時-17時、無休、撮影可。)

平成12年(2000年)に、保存の為、松代の表柴町から移築された武家長屋門である。
江戸時代後期・弘化3年(1846年)に建てられ、三間一戸形式、
間口が9間(約16m)・門部二間三尺(約4.5m)・奥行き二間(約3.6m)となっている。
完全に近い状態の武家長屋門として、現存するものは珍しいそうだ。

また、長い間口に対して、屋根が低いのが特徴になっている。
門の左右の部分は、右手に八畳間がふたつ、左手に十畳間がひとつあり、
部下で藩の下級役人である同心の部屋になっている。



松代藩中級武士の白井家は、藩の御金奉行(おかねぶぎょう/藩の金庫管理者)や
御普請奉行(ごふしんぶぎょう/城の石垣・地形・縄張り等の管理者)を輩出した。
現在は、観光客向けの無料お休み処として活用されており、
地元観光ボランティアが、茶のもてなしや観光案内をしている。

旧白井家表門の向かいには、真田勘解由邸(さなだかげゆてい)【水色マーカー】がある。
(内部非公開、敷地内の主屋と鎮守社が、国登録有形文化財。)

真田家の分家として、代々、「勘解由(かげゆ)」を名乗り、
四代藩主・真田信弘(のぶひろ)や重臣達を輩出したそうだ。
主屋は、江戸時代末期、松代城にあった花の丸御殿の一部を移設したと伝えられている。

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(真田勘解由邸。)

なお、勘解由は名前ではなく、姓である。
二代目松代藩主・真田信政(のぶまさ)の長男である信就(のぶなり)は、
実母が真田家に入る事を遠慮した為に、この分家を立てたとの事。
また、信就本人は藩主にはならず、子の信弘が藩主となっている。

真田勘解由邸の門を見学していると・・・
年配の観光ボランティアに声をかけて頂き、旧白井家で、美味しい緑茶をご馳走になる。
小梅は庭園の梅の木から収穫したそうで、シンプルな味とカリコリと良い歯応えだ。

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話によると、明治になってから、真田本家は横浜に引越してしまったそうで、
現在、松代町在住の真田家は、全てが分家になっているそうだ。
明治に入ると、有力な武家は華族として大都市に出て、事業等を起こす例が多かったとの事。



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文武学校は有料施設ですが、撮影可になっています(現地の受付で確認済み)。
文化財管理者の長野市教育委員会文化財課より、写真掲載許可を頂いております。

【歴史参考資料】
現地観光案内板、長野市教育委員会文化財PDF資料。

【謝意】
長野市教育委員会文化財課さま、写真掲載許可を頂きまして、ありがとうございます。
厚くお礼申し上げます。

2016年1月13日再編集
2016年8月18日再編集(文体変更・文章追加・画像整理)

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category: 長野電鉄屋代線1日目 20話

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