hmdの鐵たびブログ ローカル線の旅

のんびりローカル線の鉄道旅を、写真を中心に「見る紀行文」で長期連載しています。

【158】信州松代、あるローカル線の最後の秋に訪ねて・・・長野電鉄屋代線(3)信濃川田駅 後編  


信濃川田駅(しなのかわだ-)の木造駅舎を、見てみよう。
線路北側の千曲川(ちくまがわ)側に設置されており、
もちろん、開業当時の駅舎である事から、今年で丁度、築90年になる。

切妻屋根の瓦棒付きトタン葺き、軒下に見える白壁が印象的だ。
また、降雪エリアの為に屋根も急傾斜で、大きな鈎状の雪止め金具が付いており、
ホーム側の旅客上屋は出庇風で、急傾斜であるのが特徴になっている。
東側の須坂方の転轍てこ小屋(てんてつ−)と倉庫と思われる部分は、最近、葺き替えられている様だ。

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大きさは、松代駅よりふたまわり程、小さな木造駅舎である。
駅事務室の窓や扉は、カーテンや大きな板で閉鎖されており、中は見えない。
また、改札は撤去された様だが、ホーム側に木製引き戸が付いており、
南関東住まいの小生には、冬の寒さが厳しい信州らしさを感じる所だ。

また、斜め梁の角度が大きく、奥の梁の上にある登り梁で屋根上部を支える雪国らしい構造だ。
しかし、支柱は結構細く感じる。

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白壁はモルタル壁では無く、昔ながらの白漆喰壁で、中の補強材の麻粗縄が見えている。
また、塞がれた出入口横に、こんな注意書きも・・・今見ると、少し寂しい限りだ。

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信濃川田駅の有人駅時代は、六、七人の駅員が勤務した主要駅だったそうで、
かつては、この川田周辺の他、千曲川対岸の町からも利用客が集まり、
屋代経由で東京方面に出る人達や通勤通学客で、大変賑わったそうだ。
なお、両隣の大室駅と若穂駅は、戦後の追加設置駅の為、当時は駅が無かった。

また、当時の屋代線(河東線/かとうせん)は、貨物の取扱も大変多く、
近くの鉱山から採掘された硫黄(※)、生糸や林檎等を輸送していた。
貨物取り扱いは、昭和46年(1971年)6月に廃止されている。

ここで、屋代線の前身の河東鉄道(かとう-)について、少し触れておきたいと思う。
河東鉄道は、その名称の通り、千曲川東岸に沿って敷設された民鉄線であった。
大正11年(1922年)6月に、国鉄信越本線(現・しなの鉄道)屋代駅から、
須坂駅(現在の長野電鉄本線との接続駅)まで開通。
3年後の大正14年(1925年)には、須坂駅から木島駅(現在廃止)に延伸開通している。
現在は、長野駅−須坂駅−湯田中駅間の長野電鉄本線がメインルートであるが、
元々は、東京口である屋代駅から河東線を経由し、木島駅へのルートがメインだったそうで、
一時期は、上野発湯田中行き国鉄直通急行「志賀」も乗り入れていた。

開業当初は非電化の為、蒸気機関車牽引の客車列車が運行していたそうだが、
屋代駅−須坂駅間開業後の4年後には、早々と電化した。
そして、長野中心部の権堂駅−須坂駅間の長野電気鉄道を、電化をした同年秋に合併し、
現社名の長野電鉄に社名変更をしている。
また、平成14年(2002年)9月までは、かつての会社名を彷彿させる河東線の支線名だったが、
木島線の廃線と同じ年に、現在の屋代線に名称変更されている。

駅舎の中に入ってみよう。待合室の広さは10畳程で、天井も高い。
西側の窓沿いの幅一杯に、木造のロングベンチが据え付けられており、
床はコンクリートの打ち放しである。

渋色の縦腰板と黒くすす汚れた白漆喰が、長い時を経た貫禄を感じさせる。
床のコンクリートの抉れは、ストーブ設置の跡だろう。
ベンチは、背もたれが無く、座面に少し隙間があるタイプになっている。
ベンチ下に、「ノ」の字に曲げられた鉄パイプが取り付けられており、
補強の為と思われるが、珍しい。

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出札口や鉄道小荷物窓口は板で閉鎖され、手前のテーブルも撤去されているので、
残念ながら、往年の面影は無い。
有人駅時代のものと思われる、昔の電光時刻表や広告看板は、一部残っている。

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実は、太平洋戦争終戦日の二日前の昭和20年(1945年)8月13日、
米軍空母戦闘機が長野まで飛来し、陸軍長野飛行場や国鉄長野機関区が攻撃された、
長野空襲があった。
その際、飛行場から近かった信濃川田駅と川田国民学校(現・川田小学校)が、空襲を受けたそうだ。

上空から見て、地上の動く人や車両を標的として狙われる為、
屋代線(当時は河東線)の電車は、この駅に緊急避難停車したそうだが、
機銃掃射を受け、犠牲者と負傷者が出たそうだ。
駅舎の壁には、その機銃掃射の跡が残っていたそうだが、その後、補修された様である。
また、屋根から天井に貫通した銃痕があるらしく、良く調べると・・・
西側窓上中央の二ヶ所の傷穴があり、これが銃痕らしい(赤丸の部分、斜め上から貫通している)。

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出入口には、10cm位の凸段差があり、段差の上に引き戸が設置されている。
なお、ホーム側は、新しい木製引き戸に交換されているが、
駅前側は開業当時の両引き戸が残っている。

駅前側の両引き戸は、左戸は僅かに歪むアンティークガラス、
右戸は破損した為か、透明アクリル板に交換されている。
四段ガラス最下段の縦桟が良いアクセントになっており、並びの窓も同じデザインだ。

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駅前から、駅舎を見てみよう。
舗装された駅前広場は広く、ロータリーもある。
駅前通りには、数軒の商店と、駅舎の両隣に広大な空き地がある。

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この川田地区は、千曲川とその支流の犀川(さいがわ)との大きな合流地点の南側にあり、
有名な川中島古戦場からは、約5km下流になっている。
山側からも、保科川と赤野田川が流れる事から水利が良く、肥沃な土地である事から、
周辺に水田や果樹園が広がっている。



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グーグルマップの線路部分は、廃線の為に削除されています。
駅の所在地は正しいので、参考程度として下さい。

(※)
須坂の東、群馬県都の県境の近くに、米子鉱山と小串鉱山と言う硫黄鉱山があった。
戦時中、硫黄は火薬の原料としても使われ、大きな鉱山町が出来て、大変栄えた。
特に、群馬県境を越えた場所にある小串鉱山は、国内三本指に入る硫黄鉱山だったが、
昭和30年頃から、石油を脱硫して硫黄を生成する様になり、徐々に廃れ、閉山した。

2016年1月13日再編集
2016年8月8日再編集(文体変更・文章追加・画像整理)
2016年12月28日再編集(画像露出アンダーの為、全画像再処理入れ替え)

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category: 長野電鉄屋代線1日目 20話

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