hmdの鐵たびブログ ローカル線の旅

のんびりローカル線の鉄道旅を、写真を中心に「見る紀行文」で長期連載しています。

【210】あかがねの鉄路を追って・・・わたらせ渓谷鐡道(18)上神梅駅下車観光[その1]深沢宿 前半の部  


上神梅駅(かみかんばい-)の周辺には、見所が点在しているので、足を伸ばしてみよう。
この上神梅には、深沢宿と言う銅街道(あかがね-)の宿場があった。
駅からの急坂を登り、国道122号線を横断した山側に、旧宿場の集落があるそうだ。
横断歩道の向こう側にある、国道から分岐した小さな坂を登ろう。


(国道から見た、深沢宿への坂道。上神梅駅や国道よりも、高い場所にある。)



国道と駅を見下ろす坂をグングンと登って行くと、上神梅駅も大分下に見える。
坂を登り切ると、南北方向の緩やかな長い上り坂が真っ直ぐに伸びており、
沿道に民家がポツンポツンと並んでいる。
なお、花輪宿と同じで、足尾方が上町(上宿)、江戸方が下町(下宿)になっている。


(坂上から、上神梅駅と市営神梅団地を望む。かなりの高低差がある。)

(江戸方出入口付近の深沢下宿バス停付近。)

なお、この道が本来の銅街道であり、手作りの案内標識も設置されている。
現在の国道122号線は、草木ダム建設時に整備された新道である。
わたらせ渓谷鐡道乗車時に同席した地元の年配女性の話によると、
国道も元は県道であり、昔は車のすれ違いも出来無い程に道幅が狭く、
クネクネと曲がった険しい道だったそうで、何とか、路線バスが走っていたそうだ。
なお、今、登って来た国道に連絡する坂は、旧街道ではなく、
旧・神梅小学校の方に行く小道が、旧街道になっている。


(国道連絡路を登りきった付近の深沢宿。)

真っ直ぐに伸びる旧深沢宿を、北に歩いて行く【カメラマーカー】。
標高は約270m、東に向かって広く開けている、山裾のなだらかな台形状の地形で、
駅から50m程高い場所にある。渡良瀬川の近くではないが、水害を防ぐ為なのだろう。
国土地理院電子国土web(みどり市大間々町上神梅・1/25,000)

残念ながら、宿場町の面影は無くなっており、緑の多い閑静な住宅地になっている。
どの家も敷地が広く、大きな家が多いのが、かつての宿場町の賑わいを感じさせる。

この深沢宿は、市場町として栄えた大間々(おおまま)の北側の入口にあり、
旅人達が一服したり、宿泊をしたそうだ。
また、赤城山北麓を迂回して、沼田街道(※)へ抜ける根利道(現・県道62号線)の
分岐地点でもあり、物資の集散地としても賑わった。
元々、この深沢宿は、もっと、山の上の方の台地にあったそうだが、
江戸時代に銅街道が整備されて、往来が多くなった為、移転した新宿(あらじゅく)との事。
以前は、正光寺と長命寺と言う、ふたつの寺院もあったそうだが、共に廃寺となっている。


(深沢宿内。山の中と思えない程、穏やかな地形である。)

緩やかな長い登り坂を暫く登って行くと・・・途中に石碑が立ち並んでいる。
丁度、深沢公民館がある一角【石碑マーカー】だ。

R0010219.jpg
(公民館横にある、庚申塔と石仏群。)

(小さな庚申塔や石仏も多い。)

(変わった形の庚申塔や、みどり市が設置した観光案内板がある。)

墓石にも見えるが、庚申塔(こうしんとう)の石塔群で、かなり大きなものもある。
庚申信仰とは、江戸時代に特に盛んだった民俗信仰のひとつで、
庶民に医学が発達していなかった時代の延命長寿の信仰になっている。

中国の道教に由来し、人間の体内には、生まれながらに三匹の虫「三尸(さんし)」がおり、
六十日に一度の庚申の日に眠ると、三尸が体から抜け出して、
地獄の閻魔大王にその人間の罪悪を告げ、寿命を縮めると信じられていた。
それを防ぐ為に、庚申の日には、集落内で集まって夜通しの宴会「庚申待」が行われ、
その三年十八回の記念に石碑や石仏が建立された。
なお、「庚申(塔・講)」の文字や建立年だけの庚申塔が多いが、
庚申講の本尊である青面金剛(しょうめんこんごう)の文字や仏像、
猿や鶏等の彫刻が施されている場合もある。


(青面金剛と彫られた台座に、三猿と向かい合わせの二羽の鶏が彫刻されている。)

南側二番目の庚申塔台座には、猿三匹と向かい合った鶏二羽が彫刻されている。
所謂、「云わざる、聞かざる、見えざる」である(猿に韻を踏む)。
これは、仏教の青面金剛(夜叉神)、帝釈天や日本古来の神・猿田彦神の「猿」が結びつき、
時代が下がるに従って習合した為である。
また、鶏は朝一番に鳴く事から、夜の邪気や悪霊の類を払うと考えられており、
庚申待の終了の合図でもあった。
しかし、明治政府は庚申信仰を迷信として、庚申塔を撤去した事や、
近代医学の発達により、庚申信仰は大正時代に廃れている。
また、その後の道路整備や宅地開発等の際、庚申塔が投棄される場合も多く、
この様に一箇所に纏めて移設保存されているのは、幸運な方だ。

一番北側には、大きなレリーフ付きの立派な平板の石碑もある。
これも庚申講関連と思われ、月と太陽の下、人が手を合わせて、鶏らしいものに祈っている。
刻印は風化していて読み難いが、左下に「寛文十二」と刻まれており、
西暦1672年の江戸時代初期・四代将軍徳川家綱(-いえつな)の頃らしい。


(300年以上も経過している石碑。)

また、下段の漢文中には、「・・・為供養也」の文字も、かろうじて読める。
何かの供養の為に建立されたらしく、詳しく調べてみたい所だ。

石碑群前から、更に北に歩いて行こう。
通りには水路もあるが、水が殆ど枯れている。


(深沢宿の水路。)

約350m先の突き当りの最奥部に共同墓地があり、
手前の辻を曲がると、山の上方に行く旧道が続いている。
辻脇には、ふたつの大きな庚申塔と石祠【赤色マーカー】が建っている。


(辻横の大きな庚申塔。)

祠内は空っぽだが、村を見下ろすこの場所に、小さな石祠がある。
天王宮(てんのうぐう)の扁額が彫られており、
宿場に疫病や邪気が入るのを防いだり、往来の安全祈願の為に建立されたらしい。
祠の台座には、「文化七」と刻印されており、江戸時代後期の西暦1810年建立のものだ。

なお、この天王宮は、京都八坂神社(祇園社)の祭神である、牛頭天王を祀っていたと考えられる。
疫病を払う習合神とされるが、明治政府の神仏分離・廃仏毀釈が厳しかった。


(深沢宿上宿の天王宮石祠。)

(台座の刻印。正面台座に「村中」とあり、「村中安全氏子中」の略と思われる。)

なお、この付近が、上宿と言われる、深沢宿の最北端になる。
宿場の長さは、約750mと長く、40m近い高低差がある。



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(※沼田街道)
群馬県の沼田から、尾瀬を経由して、福島県の会津若松に至る旧街道。
江戸時代は、交通量も多く、重要な街道のひとつだった。会津街道とも言う。

【参考資料】
現地観光案内板
みどり市公式HP「歴史・文化財」

深沢宿は追加取材時の訪問になります。
リコーGRD4で撮影している為、若干色調が異なります。ご了承下さい。

2016年1月14日再編集
2016年12月9日再編集(文体変更・文章追加・画像整理)

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category: わたらせ渓谷鐵道1日目 29話

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